更新日 2017年09月22日
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日韓併合前 公共施設の発達 路面電車
朝鮮半島の【路面電車】の発達
【路面電車】導入目的
明治28年(1895)乙未事変と呼ばれる日本人集団を含む暴徒による閔妃暗殺事件がありました。韓国の王 高宗はそれを悲しみ、清涼里に王妃の墓である洪凌を作り、そこに群臣を引き連れ何度も礼拝に通っていました。
明治29年 米国のコールブラン氏とボストイック氏は王の大行列の経費が 1回で当時の10万円程度もかかることを知ると路面電車の敷設案を出しました。
経費節減と時間短縮の両方を解決し、平素は市民の交通手段として利用すれば 利益もあがる方法として電車を勧めたのです。
墓参が路面電車を作る動機でした。
【路面電車】の会社を、米国悪徳業者に乗っ取られる。
1898年(明治31年)資本金150万円で漢城電気会社を作ることになりました。コールブラン氏とボストイック氏の両氏で75万円韓国王室が75万円を出資し共同経営です。
韓王室は40万円と35万円の2回に分割して払うことにし、2回目は現金は15万円を出し、残りは線路用地、発電所敷地、会社敷地の現物出資で支払いとなりました。
コールブラン氏は、路面電車の運営実績のある京都電鉄に設計・敷設工事を依頼しました。
設計は工学博士の真木平一郎に、実務を大圃孝之助・石隅信乃雄が行い、建設を進めました。
1898年初めに漢城電気会社が設立されるが、コールブラン氏が経営を意図的に悪化させて、さらに無謀な電車敷設工事計画を立て朝鮮王室に工事費の不足を挙げて漢城電気会社の共同経営の権利を譲渡するように脅迫した。
朝鮮王室は1898年4月に漢城電気会社の委託運営の契約を結ばされた。これによりコールブラン氏は会社の経営・電車運営・路線の敷設・運賃の決定などに関する全権を把握する。
コールブラン氏は漢城電気会社の抱えている膨大な債務の返済を朝鮮王室に求めたが、高宗には応じる資金が無い。その債務の中には不必要な路線工事費・幽霊工事代金などが大幅に含まれていた。
路面電車の路線拡大と電灯需要の増加の対応する追加投資が必要になりました。
そこで米国コネクチカット州のエンパイアトラスト社という信託会社から資金を借入したのです。
漢城電気はすべての財産を担保として提供し、住所を米国コネクチカット州に移転しました。
米国で発行された社債の30万ドルを資金に信託会社の「ヒラム・R・ ミルス」を社長として 本社を米国コネクチカット州に置く 新会社の韓美電気が1904年(明治37年)に設立されました。
漢城電気は解散して無くなってしまっていましたが韓国での電気会社の運営は旧漢城電気のコルブランが実務を担当していた。
韓美電気の資本構成から韓国王室は共同経営ではなく投資者の一人になってしまっている事を高宗は気がつかなかったのです。

写真は韓美電気設立の契約書と韓国王室の印 韓国電気100年画報より引用
コールブラン氏は、1909年に日韓瓦斯会社(経営者_渋沢栄一)に韓美電気会社を120万円で売却した。
韓国王室は、日本資本の日韓瓦斯会社が買い取るまで事情を知りませんでした。朝鮮王室は不注意にもコールブラン氏に株券を預けていて、株券の売買委任状を利用し、出資金と提供した土地を奪われたのです。韓国政府の官僚が出資金を受け取り横領したか、もしくは官僚がコールブラン氏に売買委任状作成の協力した可能性がある。日韓瓦斯会社は正当に取引を行い全ての書類が整っています。米国の悪徳実業家に騙されたのは、愚かな韓国王室です。
これらの情報は、こちら こちら を参照しています。
【路面電車】1899年(明治32年)開通 コースと規格
発電所を東大門横に作り、直流600ボルト(75KW)の 1台100馬力のマッキントシュ式ボイラーとバブコック式設置し写真は京城電気20年沿革史から 西大門から洪凌(清涼里)までの単線の路線が完成しました。
陰暦4月8日の祭日(釈迦誕生日)に開通式を行いました。

京城で初めて作られた路面電車のコース

1904年頃の東大門と火力発電所

写真は線路工事の様子:韓国電気100年史41頁

写真は最初に導入された電車:写真は京城電気20年沿革史から
電車は 全長28フィーと7インチ 幅7フィート11インチで定員40人の轉向席開放車8台と韓帝専用の貴賓車1台の合計 9台で始まりました。初期はこの型がほとんどです。運転手席が客席と分離した型で馬車の御者席を連想できます。
【路面電車】料金
路面電車の料金
  • 西大門 ~ 鐘路  上等_2銭5分 下等_1銭5分
  • 西大門 ~ 東大門 上等_5銭   下等_3銭
  • 鐘路  ~ 東大門 上等_3銭5分 下等_1銭5分
  • 西大門 ~ 清涼里 上等_7銭5分 下等_5銭
  • 東大門 ~ 清涼里 上等_5銭   下等_3銭
  • 鐘路  ~ 清涼里         下等_3銭5分
  • 普済院 ~ 清涼里         下等_1銭
  • 東大門 ~ 普済院         下等_1銭5分
上等は車両中央に設けられた窓付きの部屋、下等は部屋の前後の開放部
【路面電車】の注目度と悲劇 1899年5月26日の事故
電車が開通すると 乗った人は歓声をあげて喜び、降りようとはせず 満車が続きました。
見物人も増え、地方からの見物人まで線路の両脇に人垣ができたのです。
電車の危険度など知らない市民と電車の不幸な事故が開通してから1週間目に起きました。
パゴダ公園前で軌道を横切ろうとする子供(洪夏寛の子)を電車が轢殺したのです。
これを見た群衆は怒り電車を焼討ちにしたのです。さらに次の電車にも襲い掛かり燃やしてしまいました。乗客、運転手と車掌は逃げることができたので無事でした。

写真:焼けた電車:韓国電気100年画報39頁
その場所に居た米国人は危険を感じたので通りかかった郵便配達の自転車を奪って逃げました。
群集は追いかけましたが見失い日本人(大島専蔵)の経営する 店に隠れたとして この店も襲ったのです。
暴動になり発電所や電気会社も危なくなりました。
社員は武装すると同時に発電所には電線で囲み高圧電流を流して防御を強化しました。
電気会社は写真のように武装した米国軍が出動し空砲で威嚇して暴徒から守りました。

写真:漢城電気本社韓国電気100年画報45頁より
暴動を恐れた日本人運転手は 電気会社に下記の要求をしました。
1.運転手に護身用の拳銃を支給すること。
2.警察官を車両に同乗させること。
3.万一の祭の遺族への保証金を供託すること
社長のコルブランは最後の供託金はできる。最初の2点は政府に申請はするが実現出来ない可能性が高いと回答し、とにかく替わりの運転手を雇用するまでの2ヶ月間 倍の給与で働いて欲しいと説明しました。
不満とした運転手は全員が辞職、日本に帰国したので電車は止まってしまったのです。
急遽 米国人運転手を呼びよせ 1週間後 運行を一部再開しました。
【路面電車】の注目度と悲劇 1900年5月18日の事故
1900年(明治33年)5月18日午後9時頃に、酒気を帯びた車夫が軌道で戯れて居る内、西大門より疾走してきた電車に撲たれ面部に負傷した。乗客は之を見て興奮し電車が鐘路十字路に至る頃全部下車し付近の群集を誘い電車の硝子窓を破壊し、又乗車券発売所の一部を破壊した。たまたま車内の米国人はこの為に負傷したから多数の米国人等は直ぐに走り集まり、群集に向かって短銃を乱射した。街上は一時混乱したが、間もなく兵丁巡検の派遣となって漸く沈静し、首謀者7名を警務所に押送し、負傷車夫は病院に収容した。
【路面電車】のエピソード 朝鮮の民族性
余話として 路面電車の電線が東大門付近で10mほど盗難にあいました。
警察は2人の容疑者を逮捕、王の財産を侵害したとして裁判なしで死刑、斬罪にしました。
【路面電車】の地図 1932~35年

【路面電車】の地図 1932~35年の情報で作られた地図
この地図のソウル駅を京城駅と成っているので、1910~1945年に作成された地図となります。
地図左下の七八連隊は、1916年~終戦までです。1916~45年の間に絞れ込めます。
地図左下の工兵隊は、1940年に輜重兵第20連隊と名称が変わっています。1916~40年に絞り込みです
京城駅の下第二高女は、1922年開校です。1922~40年に絞り込みです。
中央上やや右よりの大学は京城帝国大学なので1924年開設です。1924~40年に絞り込み
京城駅上の京城放送局は、1932年3月8日設立です。1932~40年絞り込み
ここまでが私(管理人)の年代鑑定の限界ですね。 文字が全部見えるともう少し鑑定ができたかも・・・
ここからは地図の持主様の鑑定です。 三越は1930年開店。
西大門から延びる電車が描かれていない。その路線は1935年開設。
地図の持主様の鑑定では、1930~35年でした。
私(管理人)と地図の持主様の鑑定で、1932~35年の情報で作られた地図と鑑定させて頂きます。
三越は私も解っていましたが、持主様に敬意を表し辞退しました。
古い地図は面白いですね。この地図でも3時間位調べましたが知識が増えましたね。感謝しています。
古い地図で楽しむことが出来るのに、領土の主張の為に地図を悪用するのは楽しくない出来事ですね。
領土問題は私にも歴史認識として意見ががありますが、地図の持主様に敬意を表してここでのコメントを控えさせていただきます。