更新日 2014年08月17日
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朝貢国(ちょうこうこく)
『朝貢』『冊封』の解説には、中国寄りの解説が多い
このページの読んで頂く前に、変な先入観を持たないで読んで頂きたい。(管理人より)
漢民族は自らを文明のの中心と考えている。それ自体が意識過剰で、中国国内(漢民族の民族内)で意識している分には問題がないが、周辺諸国に押し付ける事柄ではない。 実際に日本国とベトナムは、独自の文化を大きく育んでいた。
下記で「・・・皇帝の徳の示す・・」と書いてあるが、周辺諸国は単なる『交易』を求めているだけである。中国を尊敬して「徳」に感謝して従った訳ではない。琉球は島国であり大陸とは違う特産品を持っており、大陸(中国)はそれを求めて琉球を優遇して交易を続けていた。
また、周辺諸国は防衛上での安全保障の確保も目的の一つであったことも事実であり、交易に訪れて国防上での情報収集をしていたと考えることも自然である。逆を考えると、中国自身が紛争を恐れていたと推測することもできる。
『朝貢』(ちょうこう)とは?
『朝貢』(ちょうこう)は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。
朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。
四夷から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すことと見なされ、内外に向けて政権の正統性を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきた。
『朝貢』は中華政権にとって、安全保障システムであった。
周辺異民族と敵対関係になるよりも、朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあった。仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけで、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になる。つまり朝貢は中国政権にとって優れた安全保障システムでもあった。
『朝貢』は政治的な臣属関係の意味ではない。
朝貢それ自体には政治的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。
『冊封』(さくほう)により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。
『朝貢国』(ちょうこうこく)とは?
冊封により「天子」と君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を結んだ国である。
冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は、
  • 「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上
  • 「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)
などを行った。 「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した。 「方物」の献上を「朝貢」といい、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。 朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。
冊封体制で中華から『朝貢国』として支配された朝鮮半島
朝鮮では紀元前3世紀頃、前漢初期に衛氏朝鮮が冊封されて以来、1895年に日清戦争で日本が清を破り、下関条約によって朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して中国の冊封国であった。
高麗では国王が亡くなると、中国(宋)から冊封使が来て承認が得られるまで「権知国事」というつなぎの称号まであった。琉球など他の冊封国では国王が亡くなれば新たな国王がすぐに継ぎ、中国からの「事後承認」を得る形であったが、朝鮮だけは「事前承認」を得る形を取っており、「中国の許し」が重要になってた。 宗主国である中華の支配力が、他の朝貢国より厳しい事を意味している。
高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められた。明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。
明王朝から清王朝に代わる1636年~1637年に李氏朝鮮は、清国に忠誠を尽くさなかった為に、清国の太宗は朝鮮侵攻を行い40日余りで降伏させた。【 丙子胡乱(へいしこらん)】
清国の太宗は和睦の条件として、三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)を李氏朝鮮に誓わせ、黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を毎年朝貢する事を誓わせた。冊封関係で支配力が強い服属国としての扱いを受けるようになった。
李氏朝鮮の末期には、閔妃が自身の子(純宗)を王世子(世継ぎ)とさせるため、側近を清へ派遣して自身の子を嫡子として承認(冊封)してもらっていた記録が残っている。

李氏朝鮮の首都(西大門の近く)にあった、迎恩門(げいおんもん)
1896年に基礎だけを残し撤去される(自国の恥を取り除くため)
中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国の皇帝の使者を迎えるための門
李氏朝鮮の国王がこの門まで出迎え、『三跪九叩頭の礼』をして中国の皇帝の使者を迎えた。

1983年に作られた銅版のレリーフ
丙子胡乱(へいしこらん)1636年-1637年で、仁祖(李朝16代国王)は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、 受降壇の最上段に座るホンタイジ(清国2代皇帝)に向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、 許しを乞うた歴史事実をモチーフで表している。
冊封体制で中華と『朝貢国』として外交を築いたベトナム
前漢の武帝が交趾郡、九真郡、日南郡の三郡を北ベトナムに設置した紀元前111年から、1884年の清仏戦争でベトナムの領有権が支那からフランスへ賠償としてフランスに割譲されるまで、中華の冊封体制で従属させられてきた。歴代のベトナム王朝は、国力により冊封体制の支配力を押し戻していた王朝もあり、独立の意識は強かった。
フランスの植民地になっても、華僑は白人支配者に尻尾を振り、その手先となり税を取り立て、阿片を売り捌いてベトナム経済を牛耳っていた。だが、ベトナム戦争を勝ち抜き南北統一をしたベトナムは、不正蓄財の没収を始めると何十万もの華僑が船で脱出(ボートピープル)していった。これを「華夷秩序を乱す」と北京が怒り、軍隊を送りベトナムを荒らし回った。世に言う「中越紛争」の原因となっていく。
ベトナムでは対外的君主と国内的君主を分離した上皇制度を導入し、皇帝がその諱(本名)を知られて中国皇帝の臣下として扱われるのを避け、皇帝が早い段階で後継者に皇位を譲って太上皇(上皇)となり、宮廷内の最高意思決定と中国皇帝に対する朝貢を行い、内政一般など国内の政治は皇帝が担当していた。このため、中国への朝貢は上皇が「国王」を名乗って行っており、中国正史とベトナムの正史が伝える国王の在位にはずれが生じているといわれている。
李氏朝鮮は子供の教育で中華の支配を認め教えていたが、ベトナムでは国内政治と外交を分けて二重構造で独立の意識を保っていた。

大英図書館所蔵 1880年作成 ハノイから北京までの視覚的記録が描かれた地図
最初のページにハノイが、最終ページに北京が書かれている。
このページには、河南省の法輪献県(地名)を通過し洛河(黄河の支流)を渡る事が記されている。
朝貢を行っていた資料では無いが、交易のルートが存在していたことは伺える。
日本国は、不定期に『朝貢』を行うが、冊封体制による君臣関係はない。
遣隋使・遣唐使などを送っていた日本では、中国の天子とは冊封による君臣関係は無かった。日本側は「中国と対等貿易を行っていた」、中国側は「遠国である事を鑑み、毎年の朝貢の義務を免じた」としている。
聖徳太子は、隋皇帝の煬帝に対し自らも「天子」と名乗り、煬帝と対等であることを示して朝貢を行った。当然、周辺国でそのような態度をとる者はおらず、煬帝は激怒したものの日本に対し敵対することは無かった。
日本は、中国王朝に対し朝貢した時代があるが、渤海や朝鮮から朝貢を受けていた時代もある。

『遣隋使』で朝貢貿易を行い、大陸の進んだ文化や制度を取り入れた
日本国は、李氏朝鮮から『朝鮮通信使』で朝貢を受けていた。
朝鮮通信使の趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として朝鮮から派遣されたのが始まりである。
李氏朝鮮が豊臣秀吉の朝鮮に出兵するか否かを確認するために、1590年と1596年に秀吉に向けても派遣されている。その後、文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために一時的に中断された。
文禄・慶長の役が終わり、日本へ大量に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還を求める気風が強くなっていった。また朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を何とか結びたいと考えていた。
江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。

朝鮮通信使来朝図江戸時代 寛延元年(1748)ごろ 羽川藤永筆 69.7×91.2cm
朝鮮通信使が将軍への挨拶を終え、浅草本願寺へ戻るため常磐橋を渡り、本町2丁目を過ぎていく情景を描いている。
沿道には『桟敷席』が設けられて、朝鮮通信使一行が見世物になっている。
梁時代の『蕭繹職貢図』 中国史上最古 526~539年頃作成
6世紀に梁朝の元帝(姓・蕭、諱・繹)時代に作成されたものが中国史上最古とされ、526~539年頃作成。大きさは26.7cm×402.6cmと伝えられる。しかしこの原図は存在せず、模写された「職貢図」(宋人摹本残巻、1077年)が中国国家博物館に収蔵されており、梁職貢図とも呼ばれる。残存する模写図の長さは200.7cmで、絵中には12の地域からの使者が描かれている。

『蕭繹職貢図』6世紀梁朝元帝(蕭繹)の職貢図の模写
左から
且末国、白題(匈奴部族)、胡蜜丹、呵跋檀、周古柯国、鄧至、狼牙修、倭、亀茲、百済、波斯、滑/嚈噠からの使者。

『蕭繹職貢図』の模写 三分割拡大