更新日 2014年08月17日
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満州事変(まんしゅうじへん)
1931年9月18日~1932年2月18日 満州にある奉天の北方約8キロにある柳条湖において、満洲鉄道の線路が爆破された(柳条湖事件)。関東軍はこれをシナ軍(張学良軍)の仕業として、直ちにその根拠たる北大営を攻撃し、北大営のシナ軍を敗走せしめ、翌日には関東軍は満州鉄道沿線の諸都市をことごとく占領した。張学良軍はほとんど無抵抗で退却、わずか二ヶ月で関東軍は全満州を占領した。
満州事変は日本の『侵略』と決めつける意見も多く存在する。ここでは満州事変に影響を与えた事柄を時系列に並べてみる。
満州事変に影響を与えている事柄 年表
1875年 フランス マーガリー事件
当時イギリスはビルマを植民地化していたが、そこから中国の雲南省を通って、中国内陸部と通商を行うことを企図し、その通商路の開拓のために、H.A.ブラウン大佐の指揮する探検隊をビルマ北部のバモーから中国に向けて派遣した。ところがその探検の途中、通訳兼道案内人に選ばれたマーガリーが、武装した中国人に殺害されると、イギリス側は清に厳重な抗議を行った。
この事件はイギリス政府にとっては清側に圧力を加える格好の口実となった。翌1876年にはイギリス公使トーマス・ウェードと李鴻章が、事件に無関係の条件も含まれた芝罘条約(煙台条約)に調印することによって、一応の解決を見た。
1876年に煙台条約を締結して雲南とビルマ間の国境貿易の権利を獲得し、1886年にはビルマを併合して清朝とビルマとの間の朝貢関係を事実上消滅させました。
1884年8月~1885年4月 フランス 清仏戦争(しんふつせんそう)
ベトナムに対する宗主権を主張する清と,これを植民地化しようとするフランスとのあいだでおこなわれた戦争。中国では〈中法戦争〉と呼ぶ。アジアにおける植民地獲得競争でイギリスによってインドから締め出されたフランスは,ナポレオン3世の治世以来,積極的なインドシナ政策を推し進め、その橋頭堡としてベトナムの支配に乗り出した。1862年の第1次サイゴン条約についで,74年の第2次サイゴン条約によってフランスがベトナムを実質上保護領化すると,清は宗主権を主張してフランスに抗議した。
1885年6月9日 フランス 天津条約(てんしんじょうやく) 調印
清仏間に結ばれた、清仏戦争の講和条約である。清国代表の北洋大臣李鴻章とフランス公使ユール・パトノートル(英語版)によって締結されたため、「李・パトノール条約」とも呼ばれる。
トンキン戦争(英語版)講和のため合意された天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)に基づき、1885年6月9日に清仏戦争講和のため清仏間で天津にて締結された。癸未条約(英語版)・甲申条約(英語版)にて確立されたベトナム(アンナン及びトンキン)へのフランスの宗主権を認める内容となっており、中国側のベトナムに対する宗主権の放棄が明確となった。この結果、フランスはインドシナ植民地を確定し、植民地帝国を拡大した。
フランス・清の両国で決められた天津条約の内容
  • 清はベトナムをフランスの保護国として認知する
  • ラオカイ(保勝)とランソン以北にそれぞれ通商港を開港する
  • 清が鉄道を敷設する際にはフランスの業者と商議する
  • フランスは基隆、澎湖島から撤退する
1887年 フランス 清に海関を開き有利な税率の承認させる
フランスは1887年に蒙自に、1895年に思茅に海関を開く事、関税については輸入税を3割、輸出税は4割減らす事を清朝に承認させます。
1895年4月17日 日本 日清講和条約(下関条約)が調印
清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当)、日本に最恵国待遇を与えること等が決まった。
1895年4月23日 三国干渉(さんごくかんしょう)
ロシア・ドイツ・フランスの三国による「勧告の主旨」
「日本による遼東半島所有は、清の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」
  • ロシアは、極東進出のために不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の満州進出阻止を目論んだ。
  • ドイツは、ロシアとの共同行為は、恩を感じた清から艦隊や貯炭所の割譲または租借ができる唯一の可能性を与えるものである、と認識されている。ドイツの参加理由は、露仏の接近を妨害すること、ロシアの注意を東に向けて欧州における脅威を減らすこと、ドイツ自身の極東への野心からの干渉
  • フランスは、ロシアとドイツの緊張緩和は自国にとっても安全だと考え、さらに1892年にロシアと秘密同盟(露仏同盟)を結んでおり、その実行のためロシアと協力した。
1895年5月5日 日本 遼東半島の放棄を三国に伝える
4月24日、広島の御前会議で日本は、「列国会議」を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。しかし25日早朝、病床につく陸奥外相を訪ねてきた伊藤首相に対し、陸奥外相次のように勧めた。
  • 「列国会議」は三国以外の干渉を招く可能性がある。
  • 三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性がある。
三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた。5月4日、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場を採ったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。
三国干渉の結果
列強はこの干渉以降、阿片戦争で香港を得た英国の様に、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益や、特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を獲得していった。
  • ドイツは、1897年に宣教師殺害を理由に膠州湾を占領、翌年には租借した。
  • 1899年にフランスは広州湾一帯を、イギリスは九龍半島・威海衛を租借した。
  • ロシアも総理大臣の李鴻章が50万ルーブル、副総理の張蔭桓が25万ルーブルの賄賂を受け取り、1896年に秘密協定である李鴻章-ロバノフ協定を結び、1898年、遼東半島南端の旅順・大連の租借に成功する。そして、万里の長城以北と満州に勢力圏を拡大し、極東への野心を現実化していった。
  • イギリスは1898年1月に長江流域からビルマへの鉄道敷設と長江流域を他国に割譲しないことを確認し、さらに香港対岸の新界を租借させた。
  • 日本も防衛上最低限の要求として、新規獲得した台湾のすぐ隣にある福建省を他国に租借、割譲することがない旨の約束を取り付けた。
  • 朝鮮ではこの干渉の結果、日本の軍事的・政治的権威が失墜する一方、閔妃など親露派が台頭した。
  • これらの動きに対し、清国内で税関業務に関わるイギリス人たちは、租借地を通じた密貿易で清の財政が傾くことを懸念し、アメリカ合衆国に働きかけて門戸開放宣言を発表させる。
  • 徳富蘇峰が「自由民権」から「国民的膨張」に「変節」したきっかけとされる。
1895年11月8日 奉天半島還付条約(ほうてんはんとうかんぷじょうやく)
日本が清と遼東還付条約を締結する。その内容は、
  • 日本が清に遼東半島返還。
  • 清1895年11月16日、日本庫平銀三千万两交付。
  • 自身代金の受け渡しの日から3ヶ月以内に、日本軍が遼東半島撤退。
その後、1898年3月、ロシアは清と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、遼東半島に鉄道を繋げ、軍港を建設した。
1896年6月3日 ロシア 露清密約(ろしんみつやく)
この条約は、日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成が目的であったが、同時に、清に対しロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面があった。日露戦争を惹起した原因の一つとされる。
  • 日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。
  • 締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。
  • 戦争の際には、清の港湾は全てロシア海軍に開放される。
  • ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。鉄道の建設と経営は、華俄道勝銀行(露清銀行:ロシアが設立した、中国における利益を代表する金融機関)が引き受ける。
  • 戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。
  • この条約は15年間を有効期限とし、期限満了の前に双方は条約を継続するか協議する事ができる。
1897年11月1日 ドイツ宣教師殺害事件
山東省でおきたドイツ人宣教師の殺人事件(曹州教案)は、ドイツに「ドイツ人宣教師の保護」という上陸の絶好の口実を与えた。11月14日、ドイツの東アジア巡洋艦戦隊が山東省膠州湾(現青島)を占拠する。
1898年1月 中国分割 イギリス
ドイツの山東省、ロシアの遼東半島への進出に対抗して、1898年、山東半島の威海衛を期限25年で租借し、海軍基地を建設した。さらに、香港と広州を結ぶ広九線、上海と南京を結ぶ滬寧線(こねいせん)の敷設権を獲得し揚子江流域を勢力圏とした。さらに九竜半島北部地域(新界)も99年間の期間で租借した。(1997年の香港返還はこの期限が終了したことによって実現した。)
1898年3月6日 ドイツ 膠州湾租借地(こうしゅうわんそしゃくち)
ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾を99年間清国政府から租借することになった。この租借地に、この周辺最大の膠州の町は含まれていなかったが、湾の水面全部と湾を囲む東西の半島、湾内外の島々は租借地となった。その周囲の幅50kmの地域は中立地帯となり、ドイツ軍の通行の自由が全面的に認められ、ドイツ政府の承認なしで中国側が命令や処分を下すことは出来なくなった。6週間後の4月6日、この地域は公的にドイツ保護下に置かれ、1899年7月1日には条約港として開港した。
清独の租借契約の結果、中国側は租借地内および、その周囲の幅50kmの中立地帯のすべての主権を放棄することになった。「膠州湾総督府」はドイツ帝国の主権下にありながらなお清国の領土であったが、租借期間内はドイツの保護国としての状態が続くことになった。
さらに、清国政府はドイツ帝国に二本の鉄道敷設権と周辺の鉱山・炭鉱の採掘権を譲歩した。ドイツ保護下の膠州湾租借地以外の山東省各地もこうしてドイツの影響下に入った。
1898年3月 中国分割 ロシア
三国干渉により遼東半島を日本から清朝に返還させることに成功し、さらに1896年、東清鉄道の敷設権を得て、遼東半島に進出。1898年、25年間を期限として、遼東半島南部の旅順・大連を租借した。旅順(軍港)には極東艦隊を配置し、それに隣接する大連(商業港)とともにアジア進出の拠点とした。後に日露戦争に敗れた結果、ポーツマス条約によってその租借権を日本に譲渡した。
1898年3月 ロシア 旅順(港)大連(湾)租借に関する条約
対日賠償金の援助に対する担保と、清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に、「旅順(港)大連(湾)租借に関する条約」がロシアと清の間で結ばれた。これによりロシアは遼東半島の南端の旅順・大連の25年間に渡る租借権と、東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満州支線)の鉄道敷設権を得て、軍港や鉄道などの建設が始まった。
1898年4月 フランス テン(さんずいへんに真)越鉄道(てんえつてつどう)の敷設権を獲得
清仏協定、テン(さんずいへんに真)越鉄道(べトナム北部のハノイと中国雲南省の昆明 を結ぶ鉄道。全長 848km,うち中国側は雲南鉄道)の敷設権を獲得し、1901年にインドシナ雲南鉄道会社を発足させました。
工事は1904年に開始され、多額の費用、多数の労働者の犠牲、6年の歳月の末、1910年4月1日に漸く開通に漕ぎ着けます。
1898年5月25日 イギリス 大連対岸の威海衛を租借させる
イギリスは、シベリア鉄道と旅順・大連を手にしたロシアが東アジアで陸軍のみならず海軍でも優位に立つことを懸念し、1898年5月に清に対して大連対岸の威海衛を租借させた。
威海衛のイギリスへの租借には、ドイツ・日本が危惧していた。
ドイツに対して山東半島で利権を確保する意図はないことを説明し、具体的には「威海衛に鉄道を建設しない」ことを約束。日本にはイギリスが威海衛を獲得することによってロシアの南下防止に対する日本の負担が軽減される点を説明して、それぞれ説得に成功。そして清朝には「威海衛の租借期限はロシアの関東州租借と同じ25年間とし、ロシアが関東州を返還すればイギリスも威海衛を返還する」「清朝の北洋艦隊の威海衛使用を引き続き認める」を条件に、威海衛租借を認めさせた。
1898年8月12日 アメリカ ハワイ共和国を併合する
アメリカはすでに真珠湾の独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするため併合した
7月7日、マッキンリー大統領は連邦議会におけるハワイ併合決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。8月12日にはアメリカのハワイ編入が宣言され、同日正午少し前にハワイの国旗は下ろされ、星条旗がイオラニ宮殿の上に掲げられた。
1899年 アメリカ アメリカによる門戸開放政策
アメリカは中国における他国と同等の特権を得るべく、アメリカのジョン・ヘイ国務長官は1899年、列強主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対し、中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求める通牒を発した。これに対し各国は、それぞれの利権のために他国の判断が下されるまでは判断を留保すると返答した。
1900年3月、ジョン国務長官は、通牒の内容は有効になったと宣言、これに対して日本だけはこの宣言に対し異議を申し立てたが、アメリカは門戸開放が国際的な政策になったとの主張を展開した。同年、義和団の乱の後に、ヘイ国務長官は同等の趣旨(ただし、より領土保全が強調されている)の文章を各国に再送した。
1899年11月16日 フランス 清仏広州湾租借地条約(こうしゅうわんそしゃくち)
1897年フランス海軍バヤール級装甲艦「バヤール」がたまたま清国広東省の雷州半島東側付け根にある湾に入ったところ、非常な深水良港であることに驚き、1899年、この湾一帯を占領してフランス領インドシナの管理下に置いた。1899年清国とフランスの間で「中仏互訂広州湾租界条約」が正式に締結され、フランスが99年間租借することが決められた。条約は1900年から発効し、広州湾租借地は正式にインドシナ連邦に加えられた。
1900年6月21日 義和団の乱(ぎわだんのらん)
当初は義和団を称する秘密結社による排外運動(外国から来た人・製品・思想などを排除する)であったが、1900年に西太后がこの反乱を支持して清国が6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。
連合軍はイギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の八か国で、北京陥落後に最多71920人の兵を投入している。
戦争終結の段階で、清国は北京列国公使団の賠償金(4億5000万両)要求を受諾している。巨額の賠償金支払いの為に財政支配され、清国は独立国としての体裁をなさず、「半植民地」ともいうべき状態に陥った。
民衆の不平不満の矛先が列強よりもむしろ清朝自体に向けられるようになり、清朝滅亡へ向かった。
1900年11月 ロシア 第二次露清密約(だいにじろしんみつやく)
 第二次露清密約をむすび、ロシアは、満州占領地域での軍隊駐留権や要塞設置を認めさせ、地方政府への監督権などを獲得し、満州全域の行政権を手に入れた。
1902年1月30日 日英同盟 調印発効
イギリスは義和団の乱以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。日本はいずれロシアとの対立は避けられなくなる事を予測してイギリスとの同盟を結んだ。
1902年 イギリス・フランス 英仏は共同で隆興公司を設立(雲南各地の鉱山を開発)
英仏は共同で隆興公司を設立し、清朝との間に雲南各地の鉱山を開発する協定を1902年に締結(雲南隆興公司承緋七属鑛務章程)しました。
しかし、この協定は箇旧労働者を主体とする反仏暴動や、雲南各地の紳士の抵抗、即ち利権回収運動により、清朝は契約破棄を余儀なくされ、この計画は失敗に終わりました。
1903年1月 ロシア 東清鉄道 南満洲支線 開通
ハルピン~奉天~瀋陽~大連の772キロが1903年に完成する。これにより、東北地方をT字形に縦断する東清鉄道は、全長2437キロ。シベリア鉄道と直結して黒龍江省、吉林省、遼寧省の三省を通過する一大鉄道網が完成した。それは正にロシアが中国東北部の経済、政治、軍事的を支配する最も有力な手段となったのだ。
1903年7月 ロシア 東清鉄道 本線 開通
東清鉄道本線は満州里からグロデコヴォ間1510キロで、シベリア鉄道と完全に連結したのは1903年7月であった。
1904年9月25日 ロシア シベリア鉄道 全線開通
モスクワからウラジオストックを結ぶ全長9297Kmが全線(チタ~満洲里~ハルビン~ウラジオストク)開通した。アムール川の左岸を経由し、ロシア領内を通過してチタ~ハバロフスク~ウラジオストクに至る線路は1916年に開通した。
例えば1935年当時だと、東京 - パリ間は航路で約40日を要していたが、この鉄道と朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道を使う(下関・釜山・哈爾浜・満州里・チタ経由)と15日で到達する事ができ、当時の最速ルートとなった。
ロシアは中国・朝鮮・日本の市場に対して、他のヨーロッパ諸国より優位にたてる。当時、イギリスは中国貿易の3分の2を占めていたが、イギリス貿易の優位性を覆すことも可能になる。さらにシベリア鉄道が開通すれば、ロシアは陸軍を東アジアに大量動員できる。それはウラジオストクから香港に至る制海権をロシアが把握できる可能性を意味した。
1905年2月8日 日露戦争
大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
1905年9月4日 ポーツマス条約(日露講和条約)
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。
講和内容
  • 1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  • 2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  • 3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  • 4.ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  • 5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  • 6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
1905年10月15日 桂・ハリマン覚書
日露戦争直後、ポーツマス条約締結の最中、アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、満州における共同の鉄道経営を提案し、日本政府内の大方の合意を取り付け、帰国した。
その帰国後、ポーツマス条約交渉から帰ってきた、小村寿太郎は、「桂・ハリマン覚書」の破棄を強硬に主張し、覚書は破棄されることとなった。
満州の利権を手に入れられなかったアメリカは、日本のアジアでの影響力を削ぐ為に日英同盟の解消などへ動き始める。
1906年11月26日 南満州鉄道株式会社 設立
日本政府が1906年に半官半民の特殊会社として設立した。設立は勅令により、資本金2億円のうち、1億円は日本政府によって鉄道・炭坑などの現物で出資された。
日露戦争の勝利により、1905年のポーツマス条約の結果ロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南満州支線の寛城子駅より南側の、寛城子(長春)- 大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線(安東(現・丹東) - 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営とその安定が当初の設置目的であった。当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていたが、外務大臣の小村壽太郎が反対し、日本単独資本となった。
南満州鉄道のレールの幅(軌間)を標準軌(1435㎜)に変更する
日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約で東清鉄道の南満州支線・寛城子(長春)- 大連間の鉄道施設・付属地を譲り受けた。しかし東清鉄道のレールの幅が広軌(1524㎜)で作られているので、ヨーロッパ・中国・朝鮮半島等で広く使われている標準軌(1435㎜)に変更工事を行った。1908年には大連 - 長春の本線の改築が終わった。
南満州鉄道株式会社は、東清鉄道の寛城子駅と市街地の間に長春駅を作り、軌間が異なる線路を並行して並べ、乗客の乗り換え、貨物の積み替えを出来るようにした。
撫順炭鉱(ぶじゅんたんこう)
ポーツマス条約(日露講和条約)により撫順炭鉱も日本に譲渡され、満鉄により露天掘りで大規模な石炭採掘が行われた。
1906年、当時一日あたり200~300トンであった撫順炭坑の産出量は、露天掘りを採用する事で、一日で20万トンの産出、年間で1000万トンの採掘量が得られるようになった。
1907年 満鉄平行路線の敷設計画(新民屯-法庫門間鉄道)
満鉄の買収計画は失敗に終ったが、ハリマンはは諦めてはいなかった。ロンドンのボーリング商会(実林公司)が満鉄に平行する新民屯-法庫門間鉄道の敷設権、及びこれが将来チチハルに延長される場合その敷設権をも合せて中国政府より拾得した情報を、当時奉天米国総領事だったストレートによってこの情報がハリマンに伝えられた。
即ちストレートは奉天巡撫唐紹儀との間に於て、米資二千万ドルを以て満州銀行の設立を計画し、これによってハルピン-愛揮間鉄道を敷設して前記ボーリング商会の法庫門鉄道と連絡しようとした。
しかし、袁世凱の失脚により鉄道敷設計画は中止された。
1908年11月30日 高平・ルート協定
アメリカ合衆国国務長官エリフ・ルートと、日本の高平小五郎駐米大使の間で交わされた協定。「太平洋方面に関する日米交換公文」とも呼ぶ
1908年11月時点における領土の現状を公式に認識し、清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等(すなわちジョン・ヘイによって提案されたような「門戸開放政策」)、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認、満州における日本の地位の承認から成っている。また暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満州南部の支配を承認し、そして日本はカリフォルニアへの移民の制限を黙諾した。
1909年10月 満鉄平行路線の敷設計画(錦州-愛琿間鉄道)
満鉄平行路線の敷設計画の失敗以来再度の機会を覗っていたストレートは、錦州より愛琿に至る延長実に950マイルを越える所謂錦愛鉄道敷設計画を樹てた。
そして先ずモルガン商会、第一国立銀行、ナショナルシテイ銀行等を勧誘して銀行団を組織し、本国における陣容を整えてから、ボーリング商会と提携して東三省総督との間にこの鉄道の借款予備契約を締結した。
この実現の暁には、満鉄及び東清鉄道には大きな影響が出ることは明らかなので、日露両国は中国に対し強硬なる抗議をした。
 一方米支両国は翌年1910年3月最後の契約を締結し、米国は清国政府より正当に得た権利であることを力説して譲らなかった。
 こうして日露対米中の間には一時険悪な空気が漂ったが、英仏両国は日露を支持するなど世界の世論は米支両国側に不利に傾き、問題は紛糾裡に立消えとなって了った。
1909年11月 米国により満州鉄道中立案が提唱される。
米国は錦州-愛琿間鉄道計画によって日露を脅しながら、国務卿ノックスの名に於て日露英仏独五ヶ国に対し、突如として満州鉄道中立案を提唱した。
提案の要旨は、『満州鉄道の中立は中国の領土保全及び機会均等主義の実現に就き重大なる関係を有する。よってこれを列国の共同管理下に置き、満州における中国の主権を確立させ財政及び幣制改革の実際的基礎を与えるとともに、各国は貿易上の機会均等主義を享有せんとする』
従来犬猿の間柄にあった日露両国は既得損益確保のため急に親密となり『満州の現状を侵害すべき事件の発生したときは両国協力して当る』ことを約したのである。
中立案は却って日露の既得権を強固にする結果となった。
1910年3月31日 フランス 「ていえつ鉄路」として昆明・ハノイ間が開通
1905年にていえつ鉄道のベトナム側(越部分 389 km)は開通している。
総延長855Km、高度差1,807m、橋梁・トンネル総数3,422の難工事路線であった。工事には6万人が従事し、開通までに12,000人が死亡している。建設費は1億6550万フランと言われている。
1911年10月10日 辛亥革命 勃発
清国が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
1911年10月10日 辛亥革命 勃発
清国が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
1914年7月28日 第一次世界大戦 勃発
当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。
1915年1月18日 対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)
日英同盟により第一次世界大戦に参戦し、日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの影響下にある山東地区と鉄道を占領した。
大戦は継続中で勝敗・条約の内容によっては占領地の権益が、日本・ドイツ・中華民国政府の間で大きな問題になる。
その対策として、日本が中華民国政府とおこなった外交交渉において提示した21か条の要求と希望のことである。
この交渉では直接の懸案である山東ドイツ権益の善後処理だけでなく、従来からの懸案であった満蒙における日本の権益問題や在華日本人の条約上の法益保護問題についても取り扱われた。
1915年5月7日 21ヶ条条約の締結(対華21ヶ条要求に対する個別の条約・交換公文)
『21ヶ条条約』は存在しない。1月に要求した『対華21ヶ条要求』に対する、日本帝国と中華民国政府で交わされた13本の個別の条約・交換公文である。
13本の条約及び交換公文を詳しく説明しているHP
この『要求→条約』を中華民国政府は反日政策に利用し『弱い中国を属国にしようとする、余りにも身勝手な要求だ』と宣伝した。中国では主に若い人々や民族資本家、労働者などの間に激しい反日が起った。
1917年10月 ロシア 10月革命
帝政時代末期のロシアに起った人民革命。「血の日曜日」事件を契機に始った 1905年の革命を第1次革命,帝政を打倒し,社会主義政権を樹立するにいたった。レーニンの指導するボリシェビキがプロレタリア独裁を目ざして武装蜂起し、史上初の社会主義政権を樹立した。
1917年11月2日 石井・ランシング協定
日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国での特殊権益に関する協定である。
日米両国が中国の領土的・行政的統一を尊重して中国大陸における門戸開放政策を支持することを誓った上で、日本の中国大陸に於ける特殊権益(於満州・東部内蒙古)を認めるものだった。すなわちアメリカの中国政策の一般原則と日本が主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであった。
1918年8月 ~ 1922年10月 シベリア出兵
第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの連合国が争っていた。
戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。1917年11月にはレーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命である10月革命が起き、1918年に帝国は崩壊した。
ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国とブレスト・リトフスク条約を結んで戦争から離脱した。このため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した『 干渉戦争 』を開始し、ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。
イギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため連合国は、日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。
日本の出兵理由は、資源確保、失業者対策、日露戦争後に失った利権の奪還、地政学的な理由等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである。
アメリカは1918年の夏に出兵を決定し、日本もこれにあわせて出兵した。
1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。
各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。
1918年11月11日 第一次世界大戦 休戦協定
11月7日にパリ郊外コンピエーニュの森で休戦協定交渉が開始された。11月11日、食堂車2419D(休戦の客車)の車内において、ドイツと連合軍との休戦協定が調印され、11月11日午前11時に軍事行動は停止された。
1919年1月18日 パリ講和会議(討議はパリで行われ、条約調印はベルサイユで行われた)
第一次世界大戦における連合国が中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国)の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。
日本が人種的差別撤廃提案をするが、オーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
中華民国は国内世論におされて、1915年に結ばれた日中間の二十一か条条約の取消を会議に要求した。しかし、同じ様に中華民国に利権を持っている英国・仏国・ソ連は、山東問題には興味が薄く議論を望んでいなかった。
1919年5月4日 五四運動(パリ講和会議で山東問題に対する、中華民国の大衆運動)
大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をした。デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなど、暴徒化した。
北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し、事態の収拾に努めたが、北京の学生はゼネラル・ストライキを敢行、亡国の危機と反帝国主義を訴え、各地の学生もこれに呼応して全国的な反日・反帝運動に発展した。労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、6月10日には最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日に中国政府はヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。
1919年6月28日 ベルサイユ条約の調印(パリ講和会議で決まれた内容を調印)
1月18日から行われたパリ講和会議で決められた内容をヴェルサイユ宮殿で調印された。第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約である。
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。鏡の間は「平和の間」と「戦争の間」をつなぐ構造の回廊であり、またかつて普仏戦争の仮条約締結と、ドイツ帝国の成立が宣言された場所だった。
ドイツ側の代表として、条約受諾に反対して辞任したブロックドルフ=ランツァウにかわり、ヘルマン・ミュラー外相とヨハネス・ベル運輸相が調印した。
アメリカはヴェルサイユ条約に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。
中華民国は山東問題の解決を不服として署名しなかった。1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動(五四運動)を起こし、日貨排斥を訴える動きが広がった。
1919年10月10日 中国国民党 結成
1919年10月10日に活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ、党総理には孫文が就任した。
第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。
この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。
1921年に中国共産党が樹立されると、中国国民党は民族主義の立場から反共主義をとった。
1920年3~5月 尼港事件(にこうじけん)
赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況の尼港(アムール川河口の町、現在名ニコライエフスク・ナ・アムーレ)をパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、尼港住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求する。
これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。
日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊され尼港は廃墟となった。
1921年7月23日 中国共産党 結成
コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されたとされる。
1921年11月12日 ワシントン会議 開始
第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議。国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国が主催した初の国際会議であり、また史上初の軍縮会議となった。主な議決は次の3項目である。
  • 米・英・仏・日による、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約を締結。それに伴う日英同盟破棄。
  • 上記4ヶ国(米・英・仏・日)にイタリアを加えた、主力艦の保有量の制限を決めたワシントン海軍軍縮条約の締結。日本は対米英6割を受諾せざるを得なかった。
  • 全参加国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める九カ国条約を締結。それに伴い、石井・ランシング協定の破棄と山東還付条約の締結。
アメリカが会議を招集した目的は、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定する事であった。米国と中国政府とがいわば反日同盟を結び、それが外交的勝利をおさめたということを意味している。
1922年2月4日 山東懸案解決に関する条約
第1次世界大戦の結果、日本がドイツから獲得した山東省(膠州湾・青島)のドイツ租借地および山東鉄道(青島-済南間およびその支線)の返還が定められた。膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の坊子、シセン、金嶺鎮の鉱山は日中合弁会社の経営に移されるなど、日本の権益は多少確保された。
1923年9月1日 関東大震災
190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。
1925年1月20日 日ソ基本条約 締結
ロシア革命以後の同国を支配するソビエト共産党政権と日本国政府との間で、国交を正常化するための基本原則を定めた条約。
共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定し1918年にシベリア出兵していた。1922年、日本軍は撤兵を声明し10月までに日本軍は最終的な撤兵を完了する。
財界からソ連との貿易再開の要望、オホーツク海での漁業安定、満州で利権確保の為に、1925年に日ソ基本条約を締結する。その内容は、
  • 外交・領事関係の確立
  • 内政の相互不干渉。
  • 日露講和条約の有効性再確認
  • 漁業資源に関する条約の維持確認および改訂
  • ソ連側天然資源の日本への利権供与
  • 日本軍の北樺太撤退期限
  • 日本側の北樺太石油利権に関する規定
1924年10月10日 第一次国共合作
軍閥が抗争して統一が取れず、帝国主義列強の侵略によって中国民族の存立が危ぶまれる中、本来的には結党理念、支持基盤が全く違う中国国民党と中国共産党の二党が、民族の独立と統一を守る為に協力関係を築いた。
中国国民党の孫文がソ連の働きかけを受けて中国共産党との連繋に踏み切り、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた新三民主義を掲げ、国民党への共産党員の加入を認める形で成立した。それによって北京の軍閥政権を打倒、列強の植民地支配に対し中国の統一と独立を図った。しかし翌年、孫文が病死、国民党の実権を握った蔣介石は北京軍閥打倒を目指し北伐を開始したが、その進行中の1927年、上海クーデターによって共産党を排除し、国共合作は決裂した。
1925年3月12日 孫文 死去
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
孫文はガンに侵されており、1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して)療養先の北京に客死し、南京に葬られた。
孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。
1925年5月30日 五・三〇事件(ごさんじゅうじけん)
5月30日、第1次国共合作の時期に上海の租界での中国人労働者殺害事件から発した大規模な反帝国主義運動。きっかけとなった事件は「五・三○事件」という。
それに抗議した学生が抗議行動をおこなって多数が逮捕された。5月30日その裁判がおこなわれる日に青島でも日本資本の紡績工場で争議中の労働者が奉天派軍閥の保安隊によって射殺される事件が起き、抗議行動が一気に爆発し1万人の市民・労働者が集まった。上海南洋大学の学生を先頭にした「上海人の上海を」や「租界を回収せよ」と叫ぶデモ隊と上海租界のイギリス警官隊が衝突、警官隊の発砲によって13名の死者が出た。この事件を契機に上海総工会(労働組合)ではゼネストを指令、イギリス・日本・アメリカ・イタリアの各租界当局が陸戦対を上陸させ弾圧した。運動は香港にも広がり、ストライキを弾圧するイギリス・フランス軍により52名の労働者が殺害された。香港のストライキ(省港スト)は翌年10月まで続き、香港は麻痺状態に陥った。
1927年1月5日 イギリス租界奪取事件(漢口)
漢口にはイギリス、日本、フランスの租界がある。
1927年1月5日に、当時、支那革命運動のターゲットとされたイギリスの居留民が虐殺され焼き討ちに遭い、条約によって認められていたイギリス租界が支那軍によって武力接収された。租界で守備に当たっていたイギリス義勇兵と国民政府宣伝隊の衝突をきっかけに暴徒と化した支那の民衆が租界になだれこみ、掠奪の限りを尽くした。国民政府はこれに便乗してイギリス租界を武力奪還してしまったのである。
1927年1月6日 イギリス租界奪取事件(九江)
イギリス租界奪取事件(漢口)の翌日6日に、九江のイギリス租界も支那側に接収された
この二つの事件はイギリスはじめ列国にとっては大きな衝撃だった。
イギリスは2万3000人の軍隊を動員すると共に列国に同調を求めた。清朝のときから支那で騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅かされた場合は、列国は出兵するのが、北清事変同様、しきたりとなっていたからだ。
ところが、日本のそのときの外相・幣原喜重郎は断固として出兵を拒否した。
幣原外相の「軟弱外交」が招いた結果
幣原外交は軟弱だと国内・列強からも強く批判された。
軟弱な態度は、逆に支那人の侮日感情を高めてしまい、幣原外交の継続を不可能とする事件を起こし続けることになる。それは南京事件や漢口事件であった。
日本はイギリスやアメリカと同じように支那で大被害を受けていたにもかかわらず、日本だけは報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めてしまった。これは、支那共産党運動あるいは過激化する支那ナショナリズムからすれば、物凄く弱腰に映った。「ちょっと暴れれば日本人は逃げていく」と。その後、支那革命運動の矛先は一気に日本へと集中してゆくことになった。
この幣原の危険な軟弱外交がまかり通ったのも、ちょうどその頃、大正天皇の崩御(1926年12月)と昭和天皇の即位で国内の注目は釘付けとなっており、同時に南京事件と平行して有名な「昭和2年の金融恐慌」が起こり、政治は大混乱を極めていたからである。のちに幣原への大非難が起こるが、時すでに遅しで、このことがその後の日本に大きな悲劇をもたらす。
1927年3月24日 南京事件
1927年3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船(en)警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、フランス1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。>br />日本領事館では、警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、指輪をつけていた女性は指ごと切り落とされたという。ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという。
この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す中国共産党の計画的策謀といわれている。事件のかげにはソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて、第6軍政治部主任林祖涵と、第2軍政治部主任李富春は共産分子であり、軍長の程潜は彼らにあやつられていた。事件前夜の3月23日にボロディンが武漢で招集した中央政治委員会で、林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう提案していたという。
その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。
『幣原軟弱外交』が、蒋介石の国民政府を救う
南京事件以来、列国の外交団は蒋介石に対して最後通称に等しい抗議文によって、謝罪と首謀者の処罰を要求するとともに、直ちに軍事行動に出ようという意見が強くなった。
音頭をとったのはイギリスだが、それを知った幣原はイギリスとアメリカの駐日大使を呼んで、「最後通牒を蒋介石が受諾すれば屈辱的譲歩をしたと攻撃され、蒋介石政権はつぶれ、国内は無政府状態になり、10数万の居留民を有する日本にとっては危険である。日本はそんな冒険に加わりたくない」と述べた。
日本が最後通帳にも共同出兵にも参加しないというのでは、イギリスもアメリカもフランスもイタリアもどうすることもできない。英米などの提案どおりのことが行なわれていたら蒋介石はつぶれるか、支那全土が戦場になるかのいずれかだった。この時点で蒋介石の国民政府を救ったのは幣原軟弱外交だった。
ギリス政府は、BBCで支那に向けて『クリスマス・メッセージ』を放送
イギリス租界奪取事件、南京事件と続いた国民革命軍の掠奪暴行事件に日本がまったく報復を試みなかったことは、英米両国に疑心を抱かせた。すなわち、「日本は裏で支那とつるんでいるのではないか。同じアジア人同士で組んで、われわれ白人の権益を全部支那から追い出し、日本は一人甘い汁を吸おうとしているに違いない」と考えるようになった。少なくともイギリス外務省はそう見た。そしてイギリスは「アヘン戦争以来の政策転換」と自ら語る支那政策の大転換に踏み切る。
イギリス政府は、BBCで支那に向けて「クリスマス・メッセージ」なるものを放送した。
それまで、共同租界の実権を握り、列強の中でも最も強圧的で、強硬派で、利権に執着していると思われたイギリスが「日本の野心」を強く疑い始め、日本以上の「対支那宥和」へと大転換したのだ。
狙いは明白だった。このままではイギリスが、コミンテルンと結んだ支那革命運動や、過激化する支那ナショナリズムの標的となってしまう。それはなんとしても避けなければならない。ならば、支那人の矛先をわれわれからそらせばいい。その矛先は、つねに野心をたくましくしている日本に向けられるべきだ。これが「クリスマス・メッセージ」の意味するところだった
こうして支那の革命運動、あるいは過激なナショナリズムは、このあと日本に矛先が集中するようセットされてしまった。
ところが、日本の外務省はこの「クリスマス・メッセージ」の真意にまったく気づかなかった。「イギリスはやっと対支那宥和に転じ、われわれの立場に近づいてきた」などといって喜んでしまった。
1927年4月3日 漢口事件
南京事件の10日後の4月3日に、南京で無抵抗の日本租界の掠奪(南京事件)に味をしめた支那人たちは、暴徒と化して日本海軍の水兵に襲いかかり、日本租界になだれ込み、日本人の住居や日系工場を片っ端から掠奪した。
漢口には約2200人の日本居留民がおり、その生命の安否が気づかわれたため、海軍陸戦隊が上陸し、機関銃を地面に向けて数十発発射させ、暴民を四散させ、かろうじて日本租界は守られた。
その後、漢口の全日本人居留民2000人以上を集合せしめ、上海に退避させた。
1927年9月 国民党統一
国共合作が終了(第一次国共合作終了)した後、1927年7月に汪兆銘は武漢政府と南京政府との合体を提案し、蒋介石も了承した。そして、同年9月に南京政府が武漢政府を取り込んで国民党政権の統一が成立した。
このとき、武漢政府は一つの条件を出していた。それは蒋介石の下野だった。南京政府と合併してもいいが、共産党追い出しにはじまるこの混乱の責任をとって蒋介石は身を引くべきだという一種の権力闘争があった。この条件に応じた蒋介石は、1927年8月、政府と国民党のポストから身を引いた。
1927年11月5日 田中義一首相・蒋介石 会談
国民党政権統一の条件として下野(国民革命軍総司令を辞職)した蒋介石は、9月末に来日した。そして11月5日、田中義一首相を訪問し、森恪も交えて約2時間会談した。この会談では大体、次のような2点を中心に話し合われ、双方で円満な了解が成立した。
・共産党と分離し、ソ連と断った後の国民革命の成功、支那の統一を日本が認める
・満州に対する日本の特殊地位と権益を認める

蒋介石も記者会見でこう述べている。「両国民は一致して東亜の平和に努力するため、まず支那国民革命の完成を図り、真正なる両国歓喜の基礎を立てねばならぬ。かくしてここに同文同種、共存共栄の持論は始めて実現しうるのである」
会談では、驚くべきことに、蒋介石は、「ソ連は支那に干渉しているのだから、日本も干渉援助して欲しい」と語った。
1928年4月8日 第二次北伐
蒋介石が再び国民革命軍総司令に返り咲き、北伐を再会した。最終的な討伐対象は、当時、北京を支配していた張作霖である。
この北伐はソ連のヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。日本の田中義一首相は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、居留民の保護の名目で山東省に軍を派遣した。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が有り済南事件が起きた。
その後、国民革命軍は日本との衝突を避けつつ閻錫山、馮玉祥らの軍閥を傘下に加え進撃した。そして、6月4日奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月15日に北京を占領した(その後、張作霖爆殺事件が起こった)。
1928年5月3日 済南事件(さいなんじけん)
中国山東省の済南で起きた、日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。
山東省における日本人居留民数は、昭和2年末の外務省調査によれば、総計約16,940人に達し、そのうち青島付近に約13,640人、済南に約2,160人であり、投資総額は約1億5千万円に達していた。
当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は極度に悪化していた。
日本側は日本の権益と居留民の保護を理由に第二次山東出兵を行った。内政干渉・北軍援助の誤解を避けるため、青島に留まっていたが、4月29日、南軍によって膠済鉄道と電線が破壊されたため、青島を出発し、鉄道破壊個所を修理しながら進み、5月2日午前11時半に済南に到着した。この結果、済南に集結された兵力は、3539人となった。臨時済南派遣隊は「臨時済南派遣隊警備計画」を作成し、警備区域を商埠地全体の約8割にし、守備区域への中国軍兵士の進入を禁止した。南商埠地の邦人店舗略奪事件をきっかけに日本軍と国民革命軍は衝突した。事件が起こると国民政府は諸外国や国際聯盟に働きかけ、事件の発生が日本兵の中国兵射殺に起因すること、日本軍不法行為の例として蔡公時殺害など、非は日本にあるように宣伝した。
衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。藤田栄介青島総領事によると、中国商民らは日本軍の正確な砲撃によって被害のなかったことに感謝していた。
1928年6月4日 張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)
馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援で有力な軍閥指導者になっていた。
1927年、北京の制圧を目指して蒋介石を中心にした南軍と張作霖が中心の北軍が北京近郊で対峙した。戦闘では北軍が不利であった。
1928年6月4日、北京制圧を断念した張作霖は列車で満州の奉天に向かったが、その列車が爆破された。張作霖は運び込まれた病院で死亡した。
爆破の犯人は関東軍だとする説が多勢を占めているが、最近コミンテルンの仕業という話が出てきた。ロシアの歴史家たちが日本の孤立につけ込んだスターリンが、関東軍に秘密に工作を行なって張作霖を爆殺したという説を唱えている。
最近、新たな視点から書かれた毛沢東伝「マオ」(ユン・チアン著)が、コミンテルンの謀略であったことを明らかにしている。
爆破犯人は諸説有るとここでは書いておく。後日、別ページで詳しく調べることにする。
1928年7月19日 日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言
中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。
とくに第二次北伐に着手中の1928年7月19日には日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。
1928年12月29日 満州易幟(えきし)
張作霖爆殺後は、息子の張学良が亡くなった父親に代わり満州を支配するようになった。父を殺したと思った日本を恨み、満州に権益を持つ日本と何の交渉もせずに蒋介石の国民党と手を組んだ。
張学良は突如、満州が支那(国民党)の一部であることを宣言するために青天白日旗(当時の国民党政府[つまり支那]の国旗)を掲げた(これを「易幟(えきし)」という)。これはつまり「満州は支那(中華民国)の一部だ」と宣言したことになる。張学良は、12月29日、その旗を満州の主要都市に一斉に掲げさせた。日本の意表をつく華々しいパフォーマンスだった。これは日本と戦うと宣言したに等しい行為である。
1929年2月 国民党政府が「土地盗売厳禁条例」を制定
国民党政府(蒋介石)は日本の権益を全面的に否定する法令を次々と制定した。1929年2月には「土地盗売厳禁条例」を出す。これは、満州で日本人に土地を売ってはならない、日本人に土地を売ることは「盗人」だという条例である。
明らかに明らかな国際法違反である。
1929年10月24日 暗黒の木曜日(Black Thursday) 世界大恐慌
ニューヨークのウォール街での株価大暴落である。その影響の広がりや期間を考慮に入れればアメリカ合衆国の歴史の中でも最大級の壊滅的な株価大暴落であった。
株価の暴落が世界恐慌の切っ掛けになった訳ではない。当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内に留まっていた。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
金本位制で、アメリカが金保有量をコントロールできなかったことも大きな要因である。
1929年~1930年 抗日パルチザンによる「鉄道運行妨害」(2年間で410件の妨害)
信号所を襲撃して列車の運行を妨害する事件が多発。また満鉄の貨物3千両が破壊されるなどの甚大な被害が発生した。
・鉄道運行妨害、171件
・鉄道貨物盗難被害、189件
・鉄道用品盗難被害、22件
・鉄道電線被害、28件
1930年5月 国民党政府が「鉱業法」を制定
国民党政府(蒋介石)は、日本人の土地利用を禁止して、鉱山経営も厳禁にするという「鉱業法」を制定する。
さらに100万近い朝鮮人(当時の朝鮮人はすべて日本国民だった)農民を全部満州から追い出そう、という議論まで出た。さらには、支那に進出している日本企業がまったく営業できないようにしようという政策がとられた。これらはすべて明らかな国際法違反だった。
1930年5月30日 間島共産党暴動(かんとうきょうさんとうぼうどう)
間島で発生した中国共産党の支援を受けた朝鮮人独立運動勢力による武装蜂起のこと。
朝鮮人独立運動勢力は延吉・竜井など間島の主要都市や鉄道沿線で一斉に蜂起し、日本領事館などの官公庁や鉄道施設・電灯会社などを襲撃した。続いて7月31日にも敦化を中心として暴動が再燃、以後1年以上にわたって断続的な暴動が間島各地で繰り広げられた。大日本帝国の軍部・警察は直ちに間島に入って鎮圧を開始、奉天軍閥も鎮圧に動いた。その結果、日本側によって7,000名が検挙されて700名余りが起訴、うち周現甲・李東鮮ら22名が治安維持法や刑法などによって死刑とされた。社会主義や独立運動の名を借りたこれら暴動と関係がない、いわゆる一般の朝鮮人はこの暴動により間島の住処を追われ、大日本帝国の保護の下に満州の別の地域へ入植を斡旋された。
武装蜂起の生き残りは抗日パルチザンとして、引き続き満州での抗日運動を展開して行くことになった。
1930年8月1日 八一吉敦暴動(はちいちきっとんぼうどう)
満州で起きた、中国共産党満洲省委員会直属の撫順特別支部の朝鮮人による暴動事件である。吉敦事件や吉敦鐵道沿線地方暴動とも言う。吉敦線の敦化付近に180人、蛟河付近に150人の共産朝鮮人団が襲来して、木橋二ヶ所を破壊し、電信線を切断し、掠奪を行ったとされる。この事件によって、奉天省政府は朝鮮人の取り締まりの強化を行ったが、それに伴い兵匪や警匪による良民への横暴も増えてしまうこととなった。
1931年4月1日 国民党政府が「大連港二重課税」(日本企業への不当課税)
(1)大連港の二重課税(一度支那の港に入港された商品が他の港に入港するときは再び課税されない措置がとられていたが、日本商品が大量に入る大連港だけは二重課税されるようになった)
(2)それまで課税対象でなかった日本人経営の炭鉱への課税
(3)日本商品に限定して地方税の課税、が行われた結果、日本商品の価格が高騰し、日本企業は経営困難に陥った。
1931年6月4日 国民党政府が「撫順炭の新税賦課」(日本企業への不当課税)
神戸又新日報 1931.7.2 参照
撫順炭の輸出に新税賦課は条約違反であり、一寸輸出を中止して交渉中であったが六月四日から一時的に新税率の下に輸出を再開して一方協商をすすめているが旧輸出税は、一トンにつき〇、一〇海関両であったのを、今回は中国沿岸向〇、一五海関外国向〇、三四海関両とし、旧率に比べて前者は五割高、後者は三十四割増率である、これも要するに満鉄いじめの策と見られる。
1931年6月27日 中村大尉殺害事件(なかむらたいいさつがいじけん)
新潟県蒲原郡出身の陸軍参謀中村震太郎(1897年-1931年)大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師と身分を詐称して調査旅行していた際、中国張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた事件のこと。結局、関玉衛は死刑に処せられた。
関東軍は、現役の参謀本部将校が中国軍に殺されたということは、前代未聞、未曾有の事件で、外交上重大事件だということで、満鉄が公表したのを差し止め、新聞の掲載を禁止して、ハルピン特務機関より3名の調査員を派遣して調査した。事件の核心を掴んだ関東軍は調査を開始したが、中央部の認めるところと成らず外交交渉に移されることとなった。中国側は調査を約したが遷延、また事実無根である、日本人の捏造、宣伝であるなどと明言した為、軍関係者はいよいよ態度を硬化させた。関東軍は8月17日に記事解禁し、奉天特務機関が事件の全貌を正式に発表すると、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日中間は緊迫した空気に包まれた。そして事の重大性を認識した中国側が全面的にこれを認めたのは、柳条湖事件の起きる当日、9月18日午後に至ってからであった。正規兵によって射殺されたことは事実だが、中村大尉が逃亡せんとしたため、背後から射殺したので虐殺は事実ではないという説明であった。
1931年7月2日 万宝山事件(まんぽうざんじけん)
満洲長春(後新京)西北に入植した朝鮮人が周辺の中国人との間に了解を得ることなく用水路を建設したことに端を発し、朝鮮人と中国人の衝突が起こり、中国・日本(朝鮮人保護は日本の義務であった)双方の警官隊による発砲事件にまで発展した万宝山事件が起きていた。もともとは1909年に締結された条約により、日本人・朝鮮人は土地を賃借し農業を行う権利を保障されていたが中国人地主郝永德が中国政府の許可なしで勝手に朝鮮人に賃借し、賃借契約を結んだ朝鮮人が用水路を作ったことが当地の中国人農民の農業生産に影響したため、中国人農民約四百人によって水路破壊作業が始められた。
1931年7月3日 朝鮮排華事件(ちょうせんはいかじけん)
前日に起きた万宝山事件事件への報復として、朝鮮半島における朝鮮人による中華街襲撃事件とそれに係る中国人殺傷事件のこと。 リットン調査団は朝鮮人によって中国人127名が殺害されたと報告している。