更新日 2017年09月22日
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満州事変(まんしゅうじへん)の背景 アメリカ  
アメリカのアジアへの野心

1905年 日露戦争が終わった頃の、清国が列強により分割され失った領土(勢力範囲)・鉄道
数字は列強が利権を成立させた年
1905年の日露戦争後には列強による清国の分割は殆ど決まっている。フランス・イギリス・ドイツ・ロシア・日本の5国が独占しており、アメリカは出遅れていた。アメリカがアジアへの進出に遅れたのは、「アメリカ大陸縄張り宣言」(モンロー主義)の為に南北アメリカ大陸にヨーロッパの国々の干渉の認めない方針を採っていたためである。1898年の米西戦争の勝利でアメリカはカリブ海からスペインを追い出し、南北アメリカ大陸への影響力を固める事が出来た。この時期まではアジア・アフリカに対しての進出をする事を控えていたのである。1898年の米西戦争でアメリカはフィリピンの監督権を獲得している。1898年にはさらにハワイ共和国を併合している。これでアメリカのアジア進出の準備が整い、アジアへの植民地獲得の野心を大きく持つようになったのである。
上記の地図を見ても判るように、1898年頃には列強による清国領土の奪い合いはほぼ決まっている状況であった。しかし、満州地域はロシアが支配してはいるが盤石な状況ではなく、力による変更が可能な地域として世界の列強が注目している地域ではあった。
モンロー主義
アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したことを指す。第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会で行った7番目の年次教書演説で発表した。
モンロー主義のきっかけとなった年次教書は、1823年12月2日に議会へ送られた。内容の大意は次のとおり。
  • ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。
  • 南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。
  • 南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない。
  • 現在、独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす。
この考えはアメリカの外交政策の基本として、20世紀前半まで維持された。
アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に干渉しないが、同時にアメリカ大陸全域に対するヨーロッパ諸国の干渉にも反対する、という思想。初代のワシントン大統領も辞任に際する演説でいかなる国とも「永久的同盟」はむすぶべきでないと戒め、ジェファソン大統領も「紛糾的同盟」は結ばないと表明していたので、国際的な中立政策は、当初からのもと言えるが、モンローはさらに南北アメリカ大陸(つまり西半球)に対するアメリカ合衆国の排他的な支配権を打ち立てようとした点で新たなものといえる。
19世紀を通じてモンロー主義はアメリカの外交政策の基本である孤立主義とされるが、19世紀末に帝国主義列強としてアメリカ自身も次第に植民地獲得競争に巻き込まれると、セオドア=ローズヴェルト大統領は、モンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し「棍棒外交」を展開する。
「フロンティアの消滅」を宣言
アメリカ合衆国のフロンティアは、1890年に消滅したとされている。19世紀にアメリカ合衆国が西に向けて領土を拡大する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」がフロンティアと言われた。19世紀の西漸運動を通じてフロンティア・スピリット「開拓者魂」がアメリカ民主主義を増進させたという考え方がある。しかし、19世紀中ごろには領土は太平洋岸に達して、領土の拡大の結果として南部と北部の対立が生じて南北戦争となり、その危機を克服した後は工業化が進んでゆき、並行して新たな移民も増加し、いわゆる開拓者精神は失われていった。1893年の歴史家F=J=ターナーは、アメリカ史におけるフロンティアの意義の強調すると共に、1890年の国勢調査がフロンティアの消滅を告げていると指摘した。
このフロンティアの消滅の時期は、同時にアメリカ合衆国の資本主義経済における独占の形成が帝国主義の段階に入った時期と重なっており、新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代が開始されることとなる。

フロンティア‐スピリット(開拓者精神)で、東海岸まで領土を拡大したアメリカ
1803年「フランスからルイジアナを購入」ヨーロッパでの戦費が必要なナポレオンが破格で売却
1829年「インディアン移住法」
1818年「米英戦争でカナダの一部をイギリスより割譲」
1819年「スペインからフロリダを購入」
1845年「テキサス併合」
1846年「オレゴン併合」
1848年「メキシコ戦争で、ニューメキシコとカリフォルニアをメキシコより割譲」
1853年「メキシコからカルフォルニア南部を購入」
1867年「ロシアからアラスカを購入」ロシアはクルミア戦争で経済的に窮地な状況
1887年「ドーズ法で保留地をインディアン個人に分割」インディアンの同化政策の為の法律
1890年「フロンティアの消滅を宣言」アメリカの全ての土地に入植者が入ったことを認めた。
望厦条約(ぼうかじょうやく) 1844年7月3日
アメリカと清が結んだ修好通商条約
アヘン戦争でイギリス帝国に敗北した清は、イギリスと南京条約、虎門寨追加条約を結んだが、その内容は関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であった。このことを踏まえ、1844年7月3日にマカオ郊外の望厦村において、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様のことを定めた修好通商条約が結ばれた。
さらに南京条約付則の五港通商章程での領事裁判権が処罰権だけであったのに対し、アメリカは裁判権・処罰権も認めさせており、不平等を一歩進めている。
このときのアメリカ合衆国は第10代のタイラー大統領。19世紀前半のアメリカは、ヨーロッパ諸国に対してはモンロー主義を掲げ不干渉の姿勢であったが、その領土は西漸運動(せいぜんうんどう)によって西に拡大を続けており、まもなく1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得し、大西洋岸に達することとなる。そのような時期に、将来の太平洋進出をふまえて、中国との有利な条約を締結しておこうというのが望厦条約であった。次の1850年代にはアメリカ船の中国への進出の中継地が必要が強まり、1853年に鎖国中の日本に強く開国を要求するためペリー艦隊を派遣することになる。

望厦条約(ぼうかじょうやく) 1844年7月3日
日米和親条約 1854年3月31日
アメリカが日本に和親条約を求めた背景
フロンティア‐スピリット(開拓者精神)で領土拡大が太平洋に面した西海岸まで達していた。アメリカはこの段階まで海外に植民地を求める必要が無かったと言えるだろう。新たなフロンティアとして太平洋の島々・東アジアへの領土拡大(植民地)へと向かう事に成る。
太平洋の対岸であるアジア(日本見限らない)に通商が出来る港が必要になる。次に、港に物資を運ぶために輸送手段として鉄道が必要になる。そして、港と鉄道を守るために軍隊を派遣するようになる。実は、ヨーロッパの列強は同じ様な事をアフリカ・アジアで行い植民地を増やしてきたのである。そして、アヘン戦争で負けた清国が、次の標的としてヨーロッパ列強による植民地獲得競争が始まっているのである。その植民地獲得競争にアメリカが遅れて参加しようとしている。
日米和親条約はアメリカ側から求められた条約交渉だが、欧州列強がアフリカ・アジアで植民地獲得の為に行ってきた侵略に比べると平和的(砲艦外交で威嚇はしている)に行われている。その背景にはアメリカの内政が関係している。1861年から南北戦争が始まるアメリカは外国と戦争で対立することは避けたかった事もその理由であろう。
ペリーがアメリカを出航する一か月前(1852年10月)に、ロシアのプチャーチンが日本に向かってロシア西部のクロンシュタットを出航している。この情報もアメリカに伝わっていたであろう。
アメリカの目的
アメリカが鎖国をしていた日本に対し、親和条約を求めた目的は大きく分けて次の二つがあげられる。
  • Ⅰ. アヘン戦争で負けた清国への進出
  • Ⅱ. 太平洋を航海する捕鯨船への水・食料・薪などの補給地の確保
当時アメリカは、清をはじめとする東アジアとの貿易のために太平洋航路を必要としていた。当時の蒸気船では十分な燃料を積み込むことはできず、補給のための寄港地として日本の港が必要であった。 水、食料についても補給が必要であり、特に、冷蔵庫もしっかりした保存食もない時代において、脚気や壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給が必要であった。 また、北太平洋での鯨油を目的とした捕鯨を行う上で、国交がない状態では漂着した自国の捕鯨船員の引渡しもままならず、不便であった。このような背景から、ペリーの来航目的には通商交渉も含まれてはいたものの無理な交渉は行わず、人身保護と補給を主目的とした和親条約が締結されることとなった。下田・箱館が開港場に選ばれたのも、補給の利便性を重視したものであった。

嘉永7年2月10日(1854年) 大日本帝国の武州横浜 日本人アメリカ人応接の図
ブルックリン美術館の画像提供
南北戦争 (1861年4月12日~1865年4月9日)
イギリスから始まった産業革命が、イギリスから欧州列強に広がり、アメリカでも産業革命が起きようとしていた。
南部はイギリスへの綿花の輸出の為にプランテーション(大規模農園)経済が進み、多くの奴隷が必要であり、綿花を輸出する為に自由な貿易が行なえる事が必要であった。
北部では米英戦争(1812年~1814年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた。その為には自由で流動的な労働者であり、さらにその労働者は消費者にもなる事も求められた。
このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に、中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。

南北戦争 北部と南部の対立
南部は奴隷制度を残し、綿花を自由貿易で輸出し、合衆国から独立しようとした。結果は北部の勝利となる。
綿花の輸出に課税し、その収入で鉄道などのインフラを整備し、商工業の保護育成を進めた。
大陸横断鉄道 (1862年建設開始~1869年完成)
南北戦争中の1862年、リンカーンは大陸横断鉄道の建設を開始した。建設はネブラスカ州オマハから西へ進むルートと、カリフォルニア州サクラメントから東へ向うルートが同時に着工された。
鉄道建設は苦難の連続であった。西からの作業は中国人移民が多く使われ、発明されたばかりで安全性の低かったニトログリセリンによって多くの死者が出た。東からはアイルランド人移民が多く駆り出された。「線路は続くよ どこまでも・・・」の歌はアイルランド人労働者によって作られたものである。
リンカーンの死から4年後の1869年、ついに最初の大陸横断鉄道が完成した。1872年には日本の岩倉使節団も乗客となっている。そして、20世紀始めまでに8ルートの大陸横断鉄道が作られた。大陸横断鉄道は駅馬車の時代を終わらせ、西部は飛躍的に発展していった。
その反面、鉄道建設はインディアンの生活を破壊し、運行の邪魔になる野生動物バッファローを虐殺した。19世紀初頭に4000万頭を数えたバッファローは、1890年ころには1000頭未満となってしまった。

1869年5月10日の大陸横断鉄道開通式
アラスカ購入 1867年10月18日
1867年にアメリカ合衆国とロシア帝国の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの植民地であったアラスカ(ロシア領アメリカ)をアメリカ合衆国が買い取ることになった。
1853年~1856年のクリミア戦争により大打撃を被って経済的に疲弊したロシアはアラスカを売却する事にしたが、クリミア戦争でも敵対したイギリスに売却することを避けアメリカ合衆国を取引の相手に選んだ。
ロシアは1859年にアメリカに売却意向を打診したが、南北戦争の最中の為に進展はなかった。
1867年3月、ロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官 Eduard de Stoeckl に命じ、国務長官ウィリアム・H・スワードと交渉を行わせた。
その結果3月30日午前4時にアメリカがアラスカをロシアから購入する条約が調印された。
購入価格は720万USドルだが、アメリカがフランスからルイジアナを1803年に買ったときの値段は1500万USドルと比較すると破格に安い。面積単価は約2セント/エーカー(1エーカー=縦横63メートル)だった。
現在の貨幣価値に換算して約9075万ドルと言われていて、1ドル100円で円に換算すると約91億円です。1坪は約18円です。現在なら世界中の民間企業が購入に殺到するだろう。
この条約は4月9日にアメリカ合衆国上院で批准されたものの、当初スワードは「巨大な保冷庫を購入した」などとアメリカ国民に非難された。しかし、1896年にはアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明した他、軍事上においてもアラスカの位置がベーリング海峡や北極海を挟んでロシアと直接国境を接することから、特にソ連との間で発生した冷戦期には極めて重要な役割を果たすなど、スワードのアラスカ購入に関する評価は高いものに変わった。

アラスカ購入に使用された小切手
米西戦争(べいせいせんそう) 1898年4月25日 ~ 8月12日
米西戦争の背景
世界的な強国としてのスペイン帝国の地位は19世紀後半までの数世紀の間に低下し、太平洋、アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか残らなかった。その多くも、独立のための運動を繰り広げていた。
キューバはハイチに代わってサトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の産地として重要になり、19世紀半ばにはキューバの砂糖は世界の生産量の4分の1を占めていた。サトウキビ畑の労働は、収穫期の4~5ヶ月に限定され、それ以外の半年以上は無収入となるため、農業労働者の貧困ははなはだしかった。そのような農業労働者の犠牲の上に生み出されたキューバの安価な砂糖は、世界市場の四分の一をしめるまでになったが、「砂糖モノカルチャー」はアメリカ資本と、それに結びついた一部の富裕層に利益を独占され、多くの労働者が貧困にあえぐ構造が出来上がった。
キューバは政治的にはスペインの植民地として残っていたものの、経済的にはアメリカに依存するようになっていた。
1895年から1898年に第二次キューバ独立戦争が起こり、革命軍は島の東半分を解放し、1897年秋革命政府を樹立、スペインは大軍を派遣して残虐な鎮圧作戦に訴え、長引く動乱のため島は荒廃した。

1898年撮影 カリスト・ガルシア(反乱軍指揮官、左中央)とウィリアム・ラドロウ(アメリカ軍准将、右中央)
米西戦争の始まり
1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争である。アメリカ海軍の軍艦爆発を機にアメリカ世論の高まりなどもあり、アメリカとの戦争に突入した結果スペインは敗北し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。
1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine, ACR-1)が白人仕官の上陸後に爆発、沈没し266名の乗員を失う事故が発生した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったがニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの2紙を始めとした当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。
戦艦メインの爆発原因を、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの2紙を始めとした当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。
ウィリアム・マッキンリー大統領は開戦に同意せず世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペイン首相・サガスタ(en:Praxedes Mateo Sagasta)はキューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。
4月11日、マッキンレー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止。4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した(議会はその後、4月20日に戦争の宣言をさかのぼらせる議決を承認した)。

1898年2月15日 夜9時40分に爆発
1898年1月にメインはキューバのハバナで起きた暴動に対してアメリカ合衆国の権益を保護するため派遣された。三週間後の2月15日、夜9:40にメインはハバナ湾において爆発を起こす。後の調査で5トンにも及ぶ砲の装薬が艦の前方を吹き飛ばし、残骸は湾の底に沈んだ。メインの乗員の多くは艦の前方で就寝もしくは休憩中で、260名が爆発と同時に死亡し、6名が負傷が原因で死亡した。ジーグビー艦長を始めとする士官居室は艦の後部に位置していたため難を逃れた。
爆発原因
原因は今日に至るまで特定されておらず、諸説がある。何れも弾薬庫の爆発を沈没原因とする点は同じだが、その誘因として機雷説、積載燃料(石炭)の自然発火による引火説、対スペイン開戦を狙った米国による自作自演説、の主に三つの説が唱えられている。
「熟したフルーツ」理論
1823年4月28日新任のネルソン駐スペイン公使宛に出した訓令の中で、アダムズ国務長官が、嵐によってリンゴが木から地上に落ちざるを得ないように、キューバは米国に引き寄せられざるを得ないと述べた言葉をしばしば引用する。「熟したフルーツ」の理論の根拠となる有名なアダムズの「引力の法則」である。
19世紀国力が十分でなかった米国は、未だキューバを併合する機が熟していないとして、キューバがヨーロッパ列強、特に英国の手に落ちることを懸念し、それならばむしろスペインの植民地のままでいるという現状維持の方を望んだ。
1823年米国が発表した「モンロー宣言」も、その真意はキューバの現状維持を求めるという米国の下心であった。
1840年米国はキューバに対する野心から植民地キューバ防衛のため、スペインに軍事援助を申し出た程であった。
他方で1848年ポーク(James K. Polk)大統領(1835―49)は、スペインにキューバ購入の可能性を打診し断られたりもした。また南部が北部に対抗するため、奴隷制を維持していたキューバを併合する動きもあった。
19世紀後半以降キューバは米国との経済関係を深め経済的に米国の植民地となった。そして米国のキューバに対する野心は、併合、買収、軍事占領等手段こそ異なれ、歴代政権に受け継がれた米国の基本政策であった。19世紀末になって漸く米国は列強に互する国力を持つようになり、機が熟した判断するや、露骨にもキューバに対する帝国主義政策の本性を表した

モーニングコール、1893年1月29日 アンクル・サム 熟れたフルーツ 紙面の右下にリーバイスの広告
イエロー・ジャーナリズム
新聞の発行部数等を伸ばすために、「事実報道」よりも「扇情的である事」を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。
米西戦争はイエロー・ジャーナリズムの影響が大きかったことで有名である。ウィリアム・ランドルフ・ハーストのニューヨーク・ジャーナル紙とジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙の2紙は発行部数競争で熾烈な争いを行い、無責任なニュースをでっち上げたりもした。このような競争の結果、ワールド紙が15,000部、ジャーナル紙が1,500部程度の発行数だったのがマニラ湾の戦いの時には160万部まで伸びた。オーソン・ウェルズは、映画『市民ケーン』の中でこの様子を皮肉った。

ニューヨーク・ワールド紙 戦艦メインが爆発した事を報道する。
米西戦争の結果
スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は8月12日に停止した。形式上の和平条約は12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。
1898年末に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となった。なお、米西戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている

タンパの第1アメリカ志願兵連隊「ラフライダーズ」の参謀。
ウィーラーは左から3人目、右端は後の大統領セオドア・ルーズベルト。
米西戦争の時にキューバに向かう前に撮影。
パリ条約 1898年12月10日
パリ条約(パリじょうやく)は、1898年12月10日にアメリカ合衆国とスペインの間で調印された米西戦争の平和条約。
勝利を収めた米国が多くの利権を獲得した。主な取り決めは以下の通り。
  • Ⅰ. キューバ独立の承認。
  • Ⅱ. スペインが領有していたフィリピン群島、グアム島、プエルトリコをアメリカへの割譲。
  • Ⅲ. フィリピン割譲に対して、アメリカがスペインに2,000万ドルを支払うこと。
原因の一つであったキューバの反乱に伴い、米国はこのパリ条約で名目上キューバを独立(1902年)させた、しかしプラット条項により事実上保護国化(1901年~1934年)されていた。

ボストン・グローブ 1898年5月28日
アメリカの「すばらしい小さな戦争」
開戦から数日後、米西戦争最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起こった。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、驚きをもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであった。・・・・何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという考えた(海軍次官セオドア=ローズヴェルトらを中枢とする共和党の)マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。「素晴らしい小さい戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか三ヶ月で終了した。アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。義勇兵を率いて戦闘に参加したセオドア=ローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。また、戦争の果実も申し分なかった。1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。
上記引用<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.60>

米西戦争を揶揄した絵
表向き正義の戦争を口にしていたが、米国はこのキューバ問題を奇貨として、太平洋に進出しようとしたのだ。米西戦争を仕掛けた真の目的は、フィリピン所有にあったのではないかと思えるくらいである。
米比戦争(べいひせんそう)1899年-1913年
 米西戦争で勝利した後、パリ条約(1898)でアメリカはフィリピンを2000万ドルで買い取って領有し、軍政下に置いた。アメリカに協力してスペインと戦ったアギナルドの指揮するフィリピン共和国を、アメリカは承認せず、共和国軍を反乱軍として鎮圧しようとしたため、1899年2月、フィリピン=アメリカ戦争(単にフィリピン戦争とも言う)が始まった。フィリピン軍はゲリラ戦で抵抗したが、1901年、アギナルドがルソン島北部で捕虜となり、1902年に敗北した。フィリピンの独立は認められず、これ以後アメリカの統治が続き、1942年の日本軍の軍政を経て、1946年に独立を達成する。

右にあるヘルメットに「AGUINALDO」と、エミリオ・アギナルドの名前が書かれている。
フィリピンの革命家にしてフィリピン共和国の初代大統領。
アンクルトムが「その石は誰に投げるのか?」と聞いている。
フィリピン独立革命 1896年-1898年
 16世紀後半以降、スペインの植民地支配のもとに置かれていたフィリピンでは、19世紀後半に植民地統治の改革を目指すプロパガンダ運動が展開され、これが急進化して1896年の独立革命と発展した。しかしこの第一の革命はいったん敗北し、1898年、米西戦争に乗じて第二の革命が起こった。
  • 1898年07月15日 アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足
  • 1898年08月13日 スペイン軍を降伏させた米軍は、それまで軍事的に貢献してきた独立派のマニラ入市を許可しない。
  • 1898年08月末日 独立派はアメリカ軍と提携して各地に侵攻し、8月末までにルソン中央部・南タガログ地域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置いた。
  • 1898年09月10日 マニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都とする。
  • 1898年09月15日 フィリピン人による独自の議会開設
  • 1898年12月21日 アメリカのマッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定
  • 1899年01月21日 独自の憲法(マロロス憲法)を制定
  • 1899年01月23日 「フィリピン(第一次)共和国」(マロロス共和国)の樹立宣言に至るまで独立国家としての整備を進めていた。
  • 1899年02月04日 両国間の戦争(米比戦争)が始まる。

1892年7月6日、フィリピン独立を求める秘密結社『カティプナン』が結成される
カティプナンのメンバー(撮影日時不明)
アメリカの帝国主義による行動
 それまで植民地支配をしてきたスペイン軍と戦う為に、アメリカはフィリピン独立革命政府を利用したのだ。
 フィリピンを植民地支配する為に、1898年12月21日アメリカのマッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定し、武力でフィリピン独立革命政府を完全に鎮圧する。
 アメリカ帝国主義のアジア侵出の一環として起こった戦争であり、列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、さらにまもなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義列強による世界分割戦争の一つである。(同時に展開された義和団事件ではアメリカは出兵したが、フィリピンに兵力を割いていたので、多くは派兵できなかった。)またこの戦争は、アメリカが関わった最初のアジア人との戦争であり、後の太平洋戦争、ベトナム戦争につながっていく。

1898年の米西戦争当時の政治漫画 - 「端から端まで1万マイル」
アメリカのシンボルの白頭鷲を使用して、プエルトリコからフィリピンまでのアメリカの支配の拡大を示している。
右下の100年前(1798年初頭)のアメリカ合衆国が小さい地図と対比されている
アメリカ軍の残虐行為
アメリカに対してフィリピンの民衆はゲリラ戦で抵抗した。フィリピン方面のアメリカ軍最高司令官マッカーサー将軍(後に日本占領の最高司令官となったダグラス=マッカーサーの父)は、1900年に正規軍ではないゲリラは「兵士としての資格に欠け、したがって、もし捕虜となった場合、戦争における兵士の特典を享けるに値しない」と声明を行った。将軍の配下のジェイコブ=スミス将軍は「10歳以上はすべて殺すこと」と簡潔な命令に要約した。 
当時、フィラデルフィアの新聞で報じられた現地報告には「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の10歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、……をすべて殺している。手を挙げて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れていく……」こうした記事は残虐行為を非難するためでなく、文明人が非文明人に対する行為として正当化するために書かれていた。
フィリピンのアメリカ軍指揮官には本土でインディアン=ファイターとしてコマンチやアパッチと戦っていたが、「一人のインディアンをつかまえるのに100人の兵士を要したものだったが、フィリピン人はいっそうたちが悪い」と言っている。インディアン戦争からフィリピンへ、さらにベトナムへとつながるのがアメリカの歴史の最暗部である。 

ニューヨーク・イブニング・ジャーナル、1902年5月5日の社説漫画。
「最も悪名高い漫画の一つ」と批評されている。
ヤコブハード・スミス将軍が出した命令『 kILL EVERY ONE OVER TEN 』 (10歳以上は皆殺しにしろ)漫画上部
アメリカのシンボルは白頭鷲だが、禿鷹を描いて揶揄している。
ハワイ併合[西戦争の為にアジアへ進出・ホノルルの軍事拠点獲得]
1898年にはアメリカ合衆国のマッキンリー大統領は合併条約を成立させた。1900年にアメリカの準州となり、第2次大戦後の1959年、アメリカ第50番目の州に昇格した。 
ハワイ併合を理解するための予備知識 [ハワイの産業の移り変わり]
【 サンダルウッド(白檀)貿易時代 】 (1790頃~1830頃)
クック来航(1778年)以前は、漁業やタロ栽培などの農業を中心とした完全な自給自足状態で、 当時の人口は約30万人と言われてる。
外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は白檀貿易を王朝の独占事業とし莫大な富を得て政権の基礎とした。白檀(びゃくだん:サンダルウッド)はインドや中国で家具・仏像の原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされた。
1815~26年が最盛期でしたが、乱獲激しくサンダルウッドを見つけるために山を焼き払う (サンダルウッドは香りで判る)など無茶をしていたために資源が枯渇し貿易は衰退した。
【 捕鯨船寄港時代 】 (1810頃~1880頃)
19世紀はじめに日本近海でマッコウクジラが発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになった。3~4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出航、9月頃に再びハワイに立ち寄るサイクルを繰り返した。
オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の1855年頃には年間400隻もの捕鯨船が来航した。捕鯨船団への水食糧薪の供給・船の修理・捕鯨船員の供給をし、当時で年間 数十万ドルの莫大な収入を得ていた。
しかしこれまた乱獲による資源の枯渇、石油の発見による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退していく。
【 さとうきびプランテーション時代 】 (1835年以降~)
サトウキビ栽培は莫大な収入をもたらす産業になるが、広大な土地・安い労働力・豊富な水が必要であった。
[広大は土地]の為に1848年にマヘレ法(土地法)が施行され、王家の持ち物であったハワイの土地が王領地・官有地・族長領地に分割された。1850年に外国人による土地の私有が認められ、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となった。
[安い労働力]の為に移民を受け入れた。白人がハワイにもたらした疫病によりハワイの人口は激減したが、労働力不足を補うために、1852年に中国から初の移民受け入れ開始。 1881年中国からの出国禁止令が出るまでに18000人が渡来した。日本からは1893年までに約30000人が移民した。アジア以外からは12000人のポルトガル移民が多く、スカンジナビア、ドイツ、ロシア、プエ ルトリコからもあった。
[豊富な水]の為に、伝統的なタロ水田が衰退してしまった。
【 パイナップルプランテーション時代 】 (1901年以降~)
さとうきびプランテーションに続く基幹産業として育ったのが、パイナップル・プランテーションです。パイナップルはさとうきびとは対照的にわずかな水で栽培でき、大規模な灌漑用水を必要としない、というメリットもあります。
1901年オアフ島ワヒアワでジェームズ・ドールがハワイアン・パイナップル社を創設する、1901年の収穫は1893ケースだったが20年後には、280万ケースとなる。
1922年に同社はラナイ島を「まるごと」買い取り。売主はハワイ先住民ではなくボールドウィンという元宣教師の一族でした。
1940年同社のパイナップルは「全世界の生産量の80%のシェア」を占めていた。
1840年10月8日 ハワイ王国憲法を公布して、立憲君主政を成立する。
1845年には基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。
1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認し、 1843年にはヴィクトリア女王のイギリス、ルイ・フィリップのフランス王国が承認した。
1844年 帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任を認める。
欧米文化の流入になじめない先住ハワイ人に対し、ハワイに帰化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた。
1848年 土地法が制定される 後に4分の3が外国人の所有となる。
1848年にマヘレ法(土地法)が施行されハワイの土地は王領地・官有地・族長領地に分割されたが、1850年にクレアナ法が制定され、外国人の土地私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となって、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。

アフプアア(Ahupua'a)は、古代のハワイ諸島における土地支配概念のこと。
火山島であるハワイ諸島は、溶岩の流れ道として無数の渓谷が誕生した。
山頂から海岸までの渓谷の範囲をひとつの共同生活区域と規定し、自給自足的な経済社会が発展した。
個人の土地所有の概念が無かった。
族長を中心とした民族集団が形成され、その土地で得られるすべてを共有しつつ生活を行っていた。
1848年の土地法成立によってそアフプアア(Ahupua'a)が崩壊した。
1852年、ハワイ併合の提案がアメリカ議会に提出されて検討される。
アメリカ国内のジャーナリズムは、すでに1849年頃にはハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始めており、1852年、この提案が議会に提出されて検討に付された。なお、この間カリフォルニアが1850年に州への昇格を果たしている。
1855年 王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指す。
アレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。アレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。アレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制する。
1863年11月 カメハメハ4世 死去
1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリーをはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている。しかし、1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。
1864年8月 新王カメハメハ5世が新しい憲法を公布する。
王権復古と「異教復活」を掲げた新王ロト・カメハメハ(カメハメハ5世)は、1864年8月、新しい憲法を公布した。歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカ合衆国は、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた。
かつての捕鯨業は衰退にむかい、製糖業が発展にむかった。とくに1860年代は、南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土にかわってハワイ諸島においてサトウキビ栽培がおおいに拡大した時期であった。しかし、いっぽうで白人がもちこんだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減し、サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入した。
1871年8月 日本とのあいだに日布修好通商条約が締結される。
カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。
その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。
しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年サイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなる。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。
日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年8月、日布修好通商条約が締結された。
急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている。
1872年12月11日 カメハメハ5世が急死
独身で、世継ぎの無いまま42歳で、次の王位継承者を指名することなく他界し、カメハメハ王朝は断絶する。
王位の決定は議会に委ねられ、選挙により親米派のルナリロが王位継承者となる。
1873年1月 ルナリロが王位に即位。
ルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。アメリカとのあいだに互恵条約を結ぶことを目標にして外交交渉もなされたが、ルナリロが肺結核とアルコール依存症によって死去する。
王位は再び議会に委ねられ、ハワイを統一したカメハメハ大王(1世)の有力な助言者だった大宮司ケイアウェアヘウルの子孫にあたるデイヴィッド・カラカウアが国政選挙で選ばれる。
1874年2月13日 カラカウアが王位に即位。
カラカウアは1874年中にハワイ国王として最初にアメリカ本土をおとずれ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約)を締結した。ハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能になり、ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない項目が付け加えられている。これにより、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかる。
1887年11月 米布互恵条約の更新で、真珠湾の独占使用権を認める。
カラカウア王自身はアメリカに真珠湾の独占使用権をあたえることに反対であり、王の妹リリウオカラニも反対したが、アメリカ上院の姿勢は強硬であり、トーマス・ヘンリー・カーターらの働きかけもあって、7年という期限付きでの独占使用を認めた。ハワイではカラカウアを「アメリカに国益を売りわたす王」として批判も多い。
1887年7月 急進的な改革派の圧力により、新憲法を承認
この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪い、かつ、投票権の有資格者として収入や資産などの一定の基準を設けたため、大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。また、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。
アメリカ本国では1890年に連邦議会は新たに関税法案を通過させたため、ハワイの製糖業は大打撃を受けた。ハワイから輸入した砂糖は無関税であったが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金がつけられたため、ハワイの砂糖生産はふるわなくなり、サトウキビ農園の地価も暴落し農園労働者の賃金も低下、さらには失業者もあらわれた。
ハワイ経済は砂糖に大きく依存しており、農園を所有して製糖業を経営していた者の多くが、アメリカの保護領となるか、編入してもらうかして事態を解決するよりほかに道はないと考えるようになった。
1891年1月 カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就任。
不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。こうした動きに危機感を覚えたアメリカの駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスは、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。
1893年1月16日 アメリカ海兵隊ハワイへ上陸。【アメリカ外交官によるクーデター】
アメリカの駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスは、米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。
親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言後、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。
クリーブランド大統領は、スティーブンス公使と革命家たちの行動を「ホノルルの無法な占拠」と批判し、スティーブンス公使の更迭する。
新公使アルバート・ウィリスは、リリウオカラニ女王が革命家たちを処罰しないことを条件に復位させるというクリーブランドの指示のもと、暫定政府の取り消しと女王復位の道を模索した。1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との見解を表明した。
リリウオカラニ女王には死刑であれ恩赦であれ、そうした処分を実行する力がもはやなかった。

1893年1月 米国軍艦ボストンに乗船していたアメリカ海兵隊164名(武装済)がホノルル港へ上陸
1893年1月18 ハワイ人の主権運動体「カ・ラーフイ・ハワイイ」が活動
1980年代に結成されたハワイ人の主権運動体の中で,最も活発に運動を展開したのが「カ・ラーフイ・ハワイイ(Ka LahuiHawai‘i) 」。この組織を率いたのが,弁護士のミリラニ・トラスクと彼の姉でありハワイ大学ハワイ研究センター教授:のハウナニーケイ・トラスク,同じく同センターの教授リリカラー・カメエレイヒヴアであった。彼女達は、10年間に渡る法律研究や歴史調査を経て、1987年に250名の代表委員の参加を得て第1回憲法会議を開催し、白らの“憲法"を起草して、カ・ラーフイ・ハワイイを立ち上げた。その後 1989年に第回憲法会議、 1992年に第3回憲法会議を聞き、それぞれ94名と100名の代表委員が参加して憲法の修正を進めた(KaLahui Hawai‘i1993)

オニパアで行進するカ・ラーフイ・ハワイイ
(The Honolulu Advertiser 1993/01/18より;The Honolulu Star-Advertiser提供)
1893年11月 日本政府は邦人保護を理由に防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣
日本政府は、アメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。この行為については、女王を支持する先住ハワイ人たちが涙を流して歓喜したといわれる。日本海軍は、翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させている。しかし、1894年3月、日本政府は巡洋艦高千穂の撤収を決めた。日本の軍艦派遣は、米布併合の牽制には一定の成果をあげたものの、かつての親日的なハワイ王国政府を復活させることはできなかった。

1893年11月 日本政府は邦人保護を理由に防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣
1894年7月4日 親米派により暫定政府を「ハワイ共和国」に改称される。
暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任したが、結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領となった。アメリカ独立記念日に公布されたハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権をあたえず、公職勤務を禁じるいっぽう、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。
1895年1月6日 王政復古を目指し先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起
ワイキキでの小さな衝突が発端であった。2週間で武装蜂起は鎮圧されたが、政府軍にも死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが反乱を知りながら黙っていたことから問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。
この蜂起のなかで多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。
1月22日、リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後は共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。こうしてハワイ王国は名実ともに滅亡した。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。
1898年8月12日 マッキンリー大統領は連邦議会におけるハワイ併合決議案に署名
8月12日にはアメリカのハワイ編入が宣言され、同日正午少し前にハワイの国旗は下ろされ、星条旗がイオラニ宮殿の上に掲げられた。同日、ハワイ共和国の主権のアメリカ合衆国への委譲を記念する儀式が宮殿内でとりおこなわれた[34]。このとき、港に停泊中のアメリカ船フィラデルフィア号をはじめ、海岸の砲列から21発の礼砲が打ち出されている[34]。併合後のハワイはアメリカ合衆国自治領として準州の扱いを受けることとなった。
門戸解放
アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れた。1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本が相次いで中国に租借地を設け、中国分割が進むと、1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。これを門戸開放政策 Open Door Policy という。さらに翌年、ヘイは清国の領土保全を主張した。門戸開放政策は以後アメリカの対外政策の原則となり、ロシア・日本の中国大陸への進出に対してもこの原則を掲げて反対した。 

扉を開けたのは日本
門の前で鍵を持って立ちはだかるアメリカ
左からドイツ・フランス・イギリス・ロシア・イタリア
棍棒外交(こんぼうがいこう)1901年9月2日以降のアメリカ外交に影響
近隣諸国が自国の政府を維持出来ないならば米国が関与するという意味で、棍棒のフレーズは使われることとなった。ウィリアム・マッキンリー大統領暗殺直前の1901年9月2日のミネソタ州フェアでセオドア・ルーズベルトは、この棍棒という語句で初めて用いた。
セオドア・ルーズベルトは、西アフリカの諺である「でっかい棍棒を持って、静かに話せ、それで言い分は通る(Speak softly and carry a big stick, you will go far)」から棍棒の言葉を用いている。セオドア・ルーズベルトは、棍棒外交という言葉を用いて、攻撃的な外交政策を指揮していった。この政策に則り、1900年代の米国は国際的な政治力を増大してきたのであった。
米英戦争以来の米国外交方針の国是となっていたモンロー主義に基づき、西半球に積極的に介入した外交政策を指す。セオドア・ルーズベルトが主張したことは、米国は西半球に、欧州諸国が介入するのを妨げる権利のみならず、砲艦外交をちらつかせる権利を持つということである。この外交方針により、アメリカ合衆国海軍が拡張され、米国は積極外交を仕掛けることとなった。ケネディのキューバ、レーガンのグレナダなどの中南米強硬政策の先鞭をつけた。
棍棒外交の例
  • 1903年にパナマをコロンビアから独立させ、パナマ運河の工事権と租借権を獲得した。
  • 1903年から1905年にかけて、ドミニカ共和国の債務超過により欧州諸国が干渉する恐れがあったとき、ドミニカ共和国を救済した。
  • 1906年からキューバを28ヶ月間、米国の占領下に置いた。
  • 1928年からのニカラグアへの内政干渉。

トーマス・ナストが描いた1904年の風刺画。ガリバー旅行記に模している。
ローズヴェルトはモンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し、海上兵力を背景に、ラテン=アメリカ地域でのアメリカの権益を確保し、ヨーロッパ諸国の干渉を排除する外交政策を行い、マスコミから「棍棒外交」と揶揄された。
パナマ運河の建設の権利を買取る
1904年に2億フランでフランスからその権利を買い取った。
アメリカは1898年の米西戦争のとき、大西洋側にいた軍艦をフィリピン攻撃のため太平洋側に開港させようとして南米大陸を廻り、90日間かかってしまったことを機に、運河建設の気運が高まった。
アメリカは当初、ニカラグァで新規に開鑿することを計画したが、1902年にニカラグァで火山噴火が相次いだことから計画を変更し、放置されていたパナマ運河の工事を再開する事を決める。
アメリカはカリブ海域へのいわゆる棍棒外交を展開し、パナマ地域のコロンビアからの独立運動を軍事支援して、1903年にパナマ共和国を独立させ、パナマ運河条約を強制してその所有権を獲得した。
1914年にパナマ運河は完成した。これによってニューヨーク=サンフランシスコ間を1万5000キロ縮めて、アメリカ産業にとって重要性が強まっていた。

サンフランシスコ ⇔ ニューヨーク 間
パナマ運河経由 - 8370km
南アメリカ最南端経由 - 20900キロメートル
1898年12月5日マッキンレー大統領が米国議会へ「戦艦オレゴン号の教訓」を踏まえ、大洋間の水路の必要を強調する。これを受け、ニカラグアの運河工事再開を勧める議員立法、超党派の支持で米上院を通過する。
パナマ運河が出来るまでの歴史
パナマ運河が出来るまでにの出来事を時系列ごとに並べる
  • 1855年01月27日 パナマ横断鉄道が開通する
  • 1880年01月01日 レセックス参加で、パナマ運河の太平洋口の予定地で起工式
  • 1889年02月04日 パナマ運河会社が倒産し、パナマ運河計画が挫折する。
  • 1901年11月18日 米国が第2次ヘイ・ポンスフォート条約でパナマ運河の建設・管理権を得る。
  • 1898年12月05日 「戦艦オレゴン号の教訓」で、二つの大洋を結ぶ運河建設の機運が高まる。
  • 1901年09月14日 セオドア・ルーズベルトが第26第大統領に就任する。棍棒外交を推し進める。
  • 1902年05月08日 ニカラグアのペレ山が大噴火。運河建設がパナマ・ルートへ傾く事になる。
  • 1902年06月19日 スプーナー法が議会で可決、米議会世論はニカラグアからパナマに傾く。
  • 1902年12月30日 フランス政府,パナマ運河会社をアメリカに譲渡することを決定する。
  • 1903年01月22日 コロンビア政府が、アメリカにパナマ運河建設権・運河地帯行政権を認める。
  • 1903年08月12日 アメリカがコロンビアに介入し、パナマ共和国が独立を宣言する。
  • 1903年11月03日 コロンビア議会は、アメリカとのパナマ運河条約批准を否決する。
  • 1903年11月13日 アメリカがパナマ共和国の独立を承認する。
  • 1903年11月18日 アメリカはパナマ人不在のままに、パナマと運河建設に関する条約に署名
  • 1904年02月13日 パナマ共和国が憲法を採択する。アメリカの干渉権も承認する。
  • 1904年05月04日 米国、パナマ運河建設予定地を正式に接収し、運河工事を再開
  • 1906年11月19日 セオドア・ルーズベルト大統領がパナマ視察に出発する。
  • 1909年01月09日 コロンビアがパナマの独立を承認する。
  • 1913年10月10日 パナマ運河が貫通する。
  • 1914年08月03日 第一次世界大戦が起きる。
  • 1914年08月05日 米国がニカラグアでの運河建設の権利を得る。他国に運河を作らせない為。
  • 1914年08月15日 パナマ運河が完成、パナマ運河の運行を開始する。
歴史を学ぶと、一つの「時」に権力・戦力・資金などが集中して集まる瞬間が有る。
歴史を学び地図を広げると、一つの「場所」に権力・戦力・資金などが集中して集まる地域が有る。
『パナマ運河の開通』は、一つの「場所」に「同時」に重要な事項が絡み合った出来事だと言える。1914年の完成で当時の「戦力」のバランスが大きく変わり、後の歴史にも大きな影響を与えている。「資金」への影響力でも、その後の地球全体への経済活動に大きな影響を与えている事も歴史が証明していると言える。
これらの影響力を最初に認識したのが、アメリカであり、セオドア・ルーズベルト大統領なのであろう。アメリカの領土拡大が北アメリカ大陸の東海岸から西へ向かい西海岸へたどり着くと、次の段階として太平洋・カリブ海に向かい領土拡大へ進む事に成る。時代が大きく変わる前に現れたのがセオドア・ルーズベルト大統領で、「時」と「場所」の重要なポイントを押さえる事ができたことが,歴代大統領の中で一番評価される事に成る。アメリカ国内では評価されても、対立関係にあった国々からは逆の評価を受けている。

1906年 セオドア・ルーズベルト大統領 。パナマ運河の蒸気ショベルに腰を下ろす。
ブロック経済
第一次世界大戦(1914~1918年)が終わってからのアメリカは復興需要に対する好景気が続き、生産に対する設備投資を過剰に続けた。ヨーロッパ諸国も大戦からの復興を遂げて工業製品を潤沢に生産できるようになった。その結果世界的に工業製品の過剰生産が起き、倒産する企業が増えた。結果として失業者が多くなり、消費が減少し景気の悪循環を繰り返した。農業も機械化生産の影響で世界的に過剰生産となり、農業生産からも失業者が出るようになった。いわゆる『世界恐慌』が起きたのである。
イギリスは景気回復の対策として、自国の企業と国民の生活を守るために過剰な生産品を消費する地域を確保する為に、緊縮財政の実施、金本位制の停止、保護関税法の導入などの対応策に続き、1932年7~8月にカナダのオタワで連邦経済会議を開催し、帝国内部で相互に輸出入関税率を優遇し合う特恵制度を導入した。