更新日 2017年09月22日
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『 ベビーリフト作戦 』
アメリカの小さな償い 『 ベビーリフト作戦 』
1975年、米国に飛行機で輸送されるベトナム孤児
ベトナム戦争が終わりに近づくにつれて、南ベトナム人の孤児とアメリカ人家庭との養子縁組が増加した。1975年3月にダナンが陥落してサイゴンにも戦火が迫ると、数十万の市民が脱出を開始した。こうした中で、ベトナム人孤児たちの生命も気遣われ、国際養子縁組を進める慈善団体である「ホルト」(Holt International Children's Services) や「フレンド・オブ・チルドレン・オブ・ベトナム」(FCVN)、「フレンズ・フォー・オール・チルドレン」(Friends For All Children, FFAC)、「カトリック救援奉仕事業」、「国際社会奉仕事業」、「インターナショナル・オーファンズ」(Childhelp)、「パール・バック財団」などが、アメリカ政府と軍に孤児たちの退避のための要請を行った。
1975年4月3日に、ジェラルド・フォード大統領は、ロッキードC-5ギャラクシー輸送機による30回のフライトで孤児たちを避難させるという「オペレーション・ベビーリフト」の開始を声明した。しかし、翌4月4日に飛び立った第1便は事故を起こし、助かるはずであった幼児や子供が大勢亡くなった。この事故の結果、この作戦はアメリカ内外の関心と同情、そして大きな非難を集めることになった。にもかかわらず作戦はその後も継続され、北ベトナム軍の攻撃によりタンソンニャット基地が使用不可能になる4月26日まで継続された。
北ベトナム政府はこの作戦について「組織的な幼児誘拐である」と非難したほか、アメリカや西側諸国においても、あわただしい異国への「避難」が孤児たちにとって最善であったのかという点が問題にされることもある。「養子」の中には書類が不備のものもあり、のちに実の親や親族との間で親権をめぐる争いが生じたケースもあるなど、養子縁組団体の活動には当時から議論の的ともなっていた。
「オペレーション・ベビーリフト」の結果、戦禍の中から3,300人以上の孤児が南ベトナムから運び出され、アメリカやオーストラリアなどの西側諸国に養子として迎えられることになった。

ベトナム養子ネットワーク
Babylift時代ベトナム養子の多くは、相互支援と優れた同窓会やその他の様々なイベントを後援しているネットワーク組織を形成するために組織されています。
VIETJO ベトナムニュース 2005/06/16 18:29 JST更新
ベビーリフト孤児、30年ぶりの祖国訪問
15日午後、ベトナム戦争終結直前の1975年4月2日に、いわゆる「ベビーリフト作戦」によりワールドエアー(本社:米アトランタ)機でアメリカに輸送され養子となったベトナム人孤児21人がホーチミン市タンソンニャット空港に到着し、30年ぶりに祖国の土を踏んだ。今回の訪問には当時ワールドエアーの日本人スチュワーデスだったAtsuko Schlesingerさん(60歳・現アメリカ国籍)も参加している。
「ベビーリフト作戦」とは米国の民間団体が当時の南ベトナム政府や孤児院と協力し、戦争孤児など2千数百人をサイゴン陥落まで輸送機でアメリカに運び続けた「孤児救出作戦」。孤児のほとんどは当時8歳以下で、その後アメリカやカナダの家庭に養子として受入れられており、現在では孤児のほとんどが30代、40代となっている。今回30年ぶりの祖国訪問を企画したワールドエアーでは当時57人の孤児をアメリカに輸送している。
産経新聞 平成17年4月16日(土)古森義久
ベトナム戦争の終結からついに三十年が過ぎた。正確にはこの三十日で戦争終結三十周年となる。一九七五年四月三十日、当時の南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)に北ベトナム軍の大部隊が四方八方から突入し、南の政権を抹殺して、長年の戦争の終わりを宣言したのだ。その日、サイゴン市内にいて、その歴史的光景を目撃した私にとって毎年、この時期はベトナム戦争を複雑な思いで回想させられる。
戦争の終わりは戦中の“神話”の虚構をも多々、暴露した。
日本の識者やマスコミの多くが「民族解放」としてのみとらえていた北ベトナムの戦いは、民族独立闘争と同時に共産主義革命だったことが当事者たちの口から宣言された。南ベトナムで政府軍や米軍と戦った主力は南独自の「民族解放勢力」ではなく、北ベトナム人民軍だった。「解放勢力」が米軍を破り、勝利を飾ったのではなく、米軍は戦争終結の二年前に完全撤退し、あとは南と北のベトナム人同士の戦闘だった。戦後は共産主義の過酷な革命統治を嫌った南ベトナムの人たちが二十年にもわたって国外への脱出を続けて、その数は数百万にも達し、戦争終結は「解放」ではなかったことを立証した。
米国でもこの四月三十日に向かって、ベトナム戦争終結三十周年を記念する集会や儀式がいろいろ催される。
米国では苦痛の曲折を経た末に、「あの戦争は失敗ではあったが、それなりに大義があった」というのが多数派の認識となった。昨年の大統領選挙で民主党ジョン・ケリー候補がベトナム戦争への反対ではなく、参加と武功とを「輝かしい実績」として宣伝したこともその例証だろう。
今年三月には反戦女優だったジェーン・フォンダさんが戦争中にハノイを訪れ、北ベトナム軍の対空砲基地で反戦の気勢をあげたことは「米国への裏切りに等しく、最大の判断ミスだった」と反省を述べた。
米国はベトナムと国交を回復し、すでに十年が過ぎた。この六月にはベトナム首相の初の訪米も予定される。ベトナムはなお共産党の独裁政権下にあるとはいえ、米国に定住したベトナム人たちに一時帰郷を呼びかけ、応じて帰る人たちも珍しくなくなった。
しかしその一方、合計百五十万人近くとされる在米ベトナム人たちの大多数はなお共産主義政権への反対や批判を保ち、首都ワシントン地区でもベトナム商店街では連日、旧南ベトナム(ベトナム共和国)の国旗を掲げている。
そんななかで「ベビーリフト作戦の元孤児たちがベトナム再訪へ」という報に接して、思わずどきりとした。
この「作戦」は北ベトナム軍の大部隊が肉薄した危機下のサイゴンから米国の民間団体が政府の支援を得て、ベトナムの孤児たちを米国へと引き取る作業だった。
革命勢力側はいち早く「ベトナム幼児の大量誘拐」と非難したが、米側は南ベトナム側の孤児院や政府機関の了承を得たとして、米国内での養子縁組を進めていた。孤児のなかには米兵とベトナム女性との間に生まれた混血の子供がとくに多かった。
ところがその孤児たちを乗せた米軍の一番機がサイゴンの空港を飛び立ってすぐ墜落したのである。一九七五年四月四日だった。飛行機は米軍でも最大の輸送機C5Aだった。重戦車数台を空輸できる巨大な軍用機に救出孤児第一陣の三百人以上が乗っていた。
私はサイゴン近郊のその墜落現場に駆けつけた。夕暮れの湿地帯に広く散らばった巨大な金属塊の無残な姿は鬼気迫る光景だった。犠牲者たちは私が着いたときにはほとんど搬出されてはいたが、なお何人かの幼児たちの変形した遺体が胸を痛めた。不幸中の幸いは墜落が離陸直後だったため、生存者が百四十人ほどもいたことだった。墜落の原因は後にドアの構造的欠陥だと判明した。
孤児救出作戦はこの事故にもかかわらず続けられ、サイゴン陥落数日前までに八歳以下の子供たち合計二千五百人以上が米国に運ばれた。この救出は日本でも話題となり、左翼活動家の小田実氏らは「ベトナムの子供を無理やり母国から連れ去る」として反対を表明した。
しかし元孤児の一人、マーティン・フレンチ氏(38)は「米国で新たな両親を得たことは少なくとも自分にとっては幸運だったと思う」と米紙に語っていた。いま米海軍の将校となった同氏は八歳までサイゴンの街路で生活していた。そのフレンチ氏も四月末、初めて生まれ故郷を再訪することになった。
さまざまな人間にとってのさまざまなベトナム戦争が米国の社会から痕跡を消すことはなさそうである。