更新日 2014年08月17日
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1900年頃の東京

1904年以前の撮影 赤門及ビ医科大学ノ一部 写真資料は東京帝国大学です。 
撮影年は不明 だが、1904年8月刊行の東京帝国大学の資料にこの写真が出ているので、それ以前の撮影である。

1910年 日本初の自動車ディーラー ルノー

1900~1910 東京

1907年 神戸オリエンタルホテル

1896年完成 日本銀行本店 写真はがき

1881年竣工 完成時の上野博物館

1894年竣工 服部時計店の初代時計塔 
初代時計塔が完成したのは明治27(1894)年。 和光の前身である服部時計店の創業者、服部金太郎が、銀座4丁目交差点角地の朝野新聞社屋を 買い取り、増改築の末に、明治28(1895)年1月、服部時計店はこの新店舗で営業を開始しました。

1873年7月20日 株式会社第一国立銀行開業 創業時の写真
兜町にあった創業時の第一国立銀行。5階建の和洋折衷様式の建物は「三井組ハウス」と呼ばれた。

1911年4月以前の撮影 飛行器より見たる市街 写真資料は東京風景です。

1911年4月以前の撮影 飛行器より見たる市街 写真資料は東京風景です。

1909年3月以前の撮影 1909年3月刊行の最新東京名所写真帖に資料としてでている
1899年「帝国博品館勧工場」として、同地(当時の東京府 東京市 京橋区 南金六町4番地)に創業する。 時計塔つきの派手な洋風の外観もあって好評を博した。「勧工場」とはテナントが入っている商業施設の事である。右に見える建物は恵比寿麦酒ホールです

1891年2月竣工 ニコライ堂
ニコライ堂は東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなむ。

1897年竣工 永代橋
道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。明治37年には東京市電による路面電車も敷設された。

1911年4月3日開橋 日本橋 花崗岩製の橋である。
東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋。日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。橋梁としては現在19代目にあたる。石造二連アーチ橋で橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一、装飾様式は妻木頼黄、装飾制作は渡辺長男による。

1908年完成 高輪岩崎邸(開東閣)
開東閣は三菱2代目当主岩崎弥之助が、明治22年に伊藤博文の邸宅地16,500坪を10万円で購入し別邸地とした。 この地は江戸時代から徳川家康公の鷹狩りや接待用の御殿があったところで御殿山と呼ばれ、品川の海が一望できる桜の名所であった。
明治34年に弥之助は、備前藩主池田候の上屋敷にあった正門をここに移築し日本門としたほか、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルに設計させて洋風庭園を配した高輪別邸を明治41年に完成させた。
  現在は三菱グループの迎賓施設として使用されている。

1890年完成 日本赤十字社中央病院病棟
明治10年(1877)西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社のはじめである。明治19年(1886)日本政府がジュネーブ条約に加盟、日本赤十字社と名を改めるが、その折皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、同23年この病院が建設された。

撮影年不明(1915年刊行の東京百建築にこの写真だ出ている) 京橋電話局
1890年12月16日 東京-横浜で電話サービス開始
1899年2月1日 わが国長距離通話のはじめ(東京~大阪間)
1899年 全国の電話加入者数が1万人を超えた。
1900年3月1日 札幌に電話が開通
1900年5月 関門海峡に初めて市外電話回線用として海底ケーブル敷設
1905年3月31日 東京~佐世保間長距離電話線開通(約1,550km)
1922年 全国の開通契約者数40万人を超える(東京8万)
1930年 全国の開通契約者数70万人を超える(東京10万)

1909年6月2日、相撲常設館「国技館」の開館式が行われる
明治39(1906)年3月、第22回帝国議会は回向院境内に相撲の屋内施設建設を決定する。設計は日本を代表する建築家・辰野金吾(*1)と葛西萬司(*2)。日本初のドーム型鉄骨板張の建物で、明治39(1906)年6月着工する。敷地1,500坪(4,959m²)、建坪906坪(2,995m²)。鉄材の骨組みに木の板で壁を作る工法で、308本の鉄柱、538tの鉄材が使用された。この大屋根が巨大な傘に見えたために「大鉄傘」という言葉が生まれた。洋風建築ではあったが、屋根は法隆寺金堂を模していた。総工費28万円。明治42(1909)年6月2日、開館式が行われる。
この相撲常設館の名称は板垣退助が提案した「尚武館」(しょうぶかん)とする案が有力だったが、相撲好きの作家江見水蔭(*3)が開館式のために起草した披露文に「角力(相撲)は日本の国技」という一節から、年寄尾車が着想を得、国技館と命名された。
開館式の前日、明治42(1909)年6月1日付の朝日新聞に「国技館を観る」と題した記事が掲載されている。「13,000人を容れる相撲常設館。幅10尺(3.03m)の廊下を通って広場へ入ると天井高く空広く眼がくらむよう。中央が土俵で高さ2尺5寸(76cm)、18尺(5.5m)四方に土を盛り上げて直径16尺(4.8m)の円が描かれ、その上に土俵屋形が建てられた。屋形は総檜造り、四ツ棟の破風造りで軒高22尺(6.7m)、屋上までは25尺(7.6m)。四本柱は白・赤・萌黄・黒の布を巻きつけ、軒下には紫色の幔幕を張る。屋根は柿葺きにすべきところを省略している。(中略)屋形が全体の建物と調和せぬことについては大分世の中に議論がある。」天井には3個のシャンデリアが輝き、桝席がきれいに円を描いている様はちょうどローマのコロシアムでも見ているようだと記事は続く。3日付記事では国技館開館式が未曾有の盛会で、午前5時の祝砲に始まり「国技と名づけられたる相撲道がいや栄に栄えゆくべき瑞相とは知られたり」と称えている。