更新日 2014年08月17日
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李氏朝鮮末期の日本の状況 迎賓館
1909年 東宮御所として作られる 

1909年竣工 東宮御所として作られたが、現在は迎賓館として使われている
東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。
しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
その大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が1924年(大正13年)成ると、その後の数年間、赤坂離宮は再び東宮御所としてこの一家の住居となったが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。
1945年 第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管

1948–61年 国立国会図書館として使用されていた当時
1948–61年 国立国会図書館 に使用される。
14948年に制定された国立国会図書館法に従い、初代館長には憲法学者で日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣だった金森徳次郎が迎えられて、1948年(昭和23年)2月25日に国立国会図書館は発足した。続いて、初代副館長に美学者で尾道市立図書館長だった中井正一が任命され、同年6月5日、旧赤坂離宮(現迎賓館)を仮庁舎として、国立国会図書館は正式に開館した。
1948-60年 法務庁法制意見長官 に使用される。
1948-70年 裁判官弾劾裁判所 に使用される。
1956-60年 内閣憲法調査会 に使用される。
1961-65年 東京オリンピック組織委員会 に使用される。
1974年3月に、迎賓館として修繕改装される。

1974年11月19日 迎賓館で撮影 第1回日米首脳会談で、フォード大統領と(右)と話し合う田中角栄首相

1974年11月21日撮影 迎賓館の庭でアメリカ・バージニア州の州花、ハナミズキを記念植樹をするフォード米大統領
フォードが大統領に就任して3カ月後の11月18日。その日がやって来ました。15時半、羽田空港に到着したフォードは、すぐに歓迎式典のために迎賓館赤坂離宮へ向かいます。迎賓館は東宮御所として明治42年(1909年)に建設されたものですが、戦後皇室から政府に移管。その後、国立国会図書館、裁判官弾劾裁判所、内閣憲法調査会、東京オリンピック組織委員会の事務所として使用されたのち、再度改修されて迎賓館となった歴史があります。
その改修後の迎賓館に初めて訪れた要人もやはりフォード。当時、迎賓館の運営に携わった外務省大臣官房儀典官室の野坂康夫(のざかやすお・現鳥取県米子市長)さんは「迎賓館は、開館したばかりで運営が確立しておらず、その基礎づくりが最初の仕事だった。実際に食事、掃除などのサービスを行なうホテルとの打ち合わせ、警備する警察との打ち合わせ、車の回しかたなど関係者との協議、行事のリハーサルが続いた。歓迎行事は、それまで空港で行なっていたのを、迎賓館の前庭で行なわれることになった。リハーサルしてみると、前庭の石畳がでこぼこし過ぎていて、赤じゅうたんをひいても、極めて歩きづらいことがわかり、急遽、作業員の人たちが手作業で平らにした」と手記を綴っています。
歓迎式典ののち、フォードは皇居宮殿へ。昭和天皇への謁見に臨みます。初の日本訪問を果たした米国大統領は、天皇陛下が初めてご会見した米国大統領でもあるのです。このときフォードは緊張で足が震えたと言います。「人生でこれ以上の緊張をこれまで体験したことはない」と後日述べたフォードは宮中晩餐会が終わったのち、緊張をほぐすために迎賓館で遅い時間までお酒を飲んでいたのだそうです。

1979年6月28日 迎賓館の庭で撮影 第5回主要国首脳会議(東京サミット)開幕
1979年6月28日、午前中の第5回主要国首脳会議を終え、迎賓館の庭に勢ぞろいした各国首脳。
左から
ジェンキンス欧州共同体(EC)委員長、
クラーク・カナダ首相、
カーター米大統領、
大平首相、
シュミット西独首相、
ジスカールデスタン仏大統領、
サッチャー英首相、
アンドレオッチ伊首相
現在の迎賓館の写真

主庭 (内閣府のオフィシャルサイトより)
南に面した主庭は全面砂利敷きで、中央には噴水池や花壇が設けられており、そのまわりには枝振りのよい松が植えられています。

正面玄関 (内閣府のオフィシャルサイトより)
正面中央にはバルコニーのついた玄関があります。緑青の屋根には日本の甲冑を形どった装飾が左右対称をなし、中央部には菊の紋章が飾られています。

中央階段 (内閣府のオフィシャルサイトより)
2階大ホールから見下ろす中央階段の床には、イタリア産の大理石が張られ、その上に赤じゅうたんが敷きつめられています。階段の左右の壁には、フランス産の大理石が鏡張りされています。また、欄干はフランス産の大理石であり、その上に8基の黄金色の大燭台が置かれています。

大ホール(絵画) (内閣府のオフィシャルサイトより)
中央階段を上がった2階大ホール正面の左右の壁面には2枚の大油絵(小磯良平画伯作 向かって左側は「絵画」、右側は「音楽」)が飾られています。

大ホール (内閣府のオフィシャルサイトより)

彩鸞の間 (内閣府のオフィシャルサイトより)
「彩鸞の間」という名は、左右の大きな鏡の上とねずみ色の大理石で造られた暖炉の両脇に「鸞」(らん)と呼ばれる霊鳥をデザインした金色の浮彫りがあることに由来します。白い天井と壁は金箔が施された石膏の浮彫りで装飾され、10枚の鏡が部屋を広く見せています。 晩餐会の招待客が国・ 公賓に謁見したり、条約・協定の調印式や国・公賓とのテレビインタビュー等に使用されています。

彩鸞の間(暖炉) (内閣府のオフィシャルサイトより)

花鳥の間 (内閣府のオフィシャルサイトより)
「花鳥の間」という名は、天井に描かれた36枚の油絵や、欄間に張られた錦綴織、壁面に飾られた30枚の楕円形の七宝などに花や鳥が描かれていることに由来します。周囲の腰壁は茶褐色のシオジ材で板張りしてあり、その壁の中段を飾るのが七宝です。下絵は日本画家の渡辺省亭が描き、明治期の七宝焼の天才・涛川惣助が焼いたものです。この部屋は、主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂で、最大130名の席が設けられます。

花鳥の間(七宝額「矮鶏」) (内閣府のオフィシャルサイトより)

朝日の間 (内閣府のオフィシャルサイトより)
「朝日の間」という名は、天井に描かれた「朝日を背にして女神が香車を走らせている姿」の絵に由来します。周囲の16本の円柱はノルウェー産の大理石です。壁には、京都西陣の金華山織の美術織物が張られ、床には、紫色を基調とした47種類の糸を使い分けて桜花を織り出した緞通が敷かれています。この部屋は国・公賓用のサロンとして使われ、ここで表敬訪問や首脳会談等の行事が行われます。

朝日の間(天井絵画) (内閣府のオフィシャルサイトより)

羽衣の間 (内閣府のオフィシャルサイトより)
「羽衣の間」という名は、謡曲の「羽衣」の景趣を描いた300平米の曲面画法による大絵画が、天井に描かれていることに由来します。3基のシャンデリアは迎賓館で最も豪華なもので、およそ7,000個もの部品で組み立てられており、高さは約3メートル、重さは約800キログラムであり、壁は楽器、楽譜等をあしらった石膏の浮彫りで飾られています。また、正面の中2階はオーケストラ・ボックスとなっており、かつて、この部屋が舞踏会場として設計されたことが偲ばれます。この部屋は、雨天の際に歓迎行事を行ったり、レセプションや会議場等として使用されており、また、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒を供するところでもあります。

羽衣の間(天井絵画) (内閣府のオフィシャルサイトより)
南に面した主庭は全面砂利敷きで、中央には噴水池や花壇が設けられており、そのまわりには枝振りのよい松が植えられています。