更新日 2014年08月17日
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李氏朝鮮末期の日本の状況 鹿鳴館
李氏朝鮮末期の日本の状況 鹿鳴館

1883年7月7日 鹿鳴館の完成
日比谷の薩摩藩別邸跡地に、新時代の迎賓館兼社交場として建設中であった鹿鳴館が晴れて落成したのは、1883年である。施工期間3年。 総工費用18万円。 設計者は、英国人建築家 ジョサイア・コンドル 。
当時、外務卿として不平等条約の改正交渉に取り組んでいた元勲の一人・井上馨が唱導する欧化政策の象徴的建造物となりました。
レンガ造りの2階建てで、大食堂、談話室、書籍室などを1階に設け、2階は3室を開け放つと100坪もの広間になる舞踏室でした。外国人向けに、バーやビリヤードも設備されていました。『鹿鳴館』の名前は、詩経の『鹿鳴の詩』から引用しています。
1,883年11月28日、招待客1,200名で落成祝賀会が催されました。完成した鹿鳴館は、夜会、舞踏会、婦人慈善会は世間の注目を集めました。欧化政策を批判している国粋主義者からは、怠けて遊びふける退廃的行為だと非難の声があがっていました。舞踏会のマナーやルールを理解していない日本人は、フィンガーボールの水を飲んだり、シワだらけの服装をしていたり、コルセットをぎりぎりまできつく締めるなどの、常識はずれなことばかりしていました。
西欧諸国の外国人は、連日連夜の舞踏会を楽しむ顔をしながらも、『滑稽だ』と書面や日記に書き残して嘲笑していたのです。鹿鳴館外交の風当たりは徐々に強くなり、外国人判事の任用などの条約改正案が世の中に知れると大反対が起こり、井上は面目を失い、1,887年に外務大臣を辞任することになります。
1,890年、鹿鳴館は宮内省に払い下げられて、華族会館がその一部を使用していましたが、1,894年の明治東京地震。建物は昭和2年までは保存されていましたが、1,940年、昭和15年に取り壊されてしまいました。

撮影年不明 鹿鳴館

撮影年不明 鹿鳴館の内部
鹿鳴館の設計者は、英国人建築家 ジョサイア・コンドル

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日)
ジョサイア・コンドルは,1852年ロンドンに誕生。 叔父は,R.I.B.A(王立建築家協会)正会員であり建築学会長であるトーマス・ロジャー・スミス。
そのロジャー・スミスのもとで建築家としての第一歩を踏み出す。その後,ゴシック建築の第一人者,建築家ウィリアム・バージェスに師事。バージェスに本格的なゴシック様式を学ぶ。
1876(明治9)年,ソーン賞受賞(王立建築家協会主催コンペ一位入賞)して一流建築家の仲間入りを果たした。 このときコンドル23歳。才能豊かな若き建築家の誕生である。
明治政府の招聘(しょうへい)により日本に訪れる。西洋建築を工部大学校造形 さらに、こうした教務のかたわら、コンドルは史上初めて来日した本格的西洋建築家として、訓盲院(明治12年), 開拓使物産売捌所(明治14年)、上野博物館(明治14年)など、政府関係の建物を次々と設計した。
これらは幕末・明治初期の日本人棟梁による擬洋風建築や初期お雇い外国人たちによる洋風建築とは一線を画した、 正統な体系にもとづく最初のヨーロッパ建築となった。 もっとも、こうした初期コンドルの設計には、実はイスラム意匠など、日本とヨーロッパの間に横たわる地域のデザインが随所にちらばっている。 コンドル自身、日本という国が自分に何をもとめているのか、模索の頃でもあった。
明治16年、辰野金吾のイギリス留学帰国により工部大学校教授の座を辰野にゆずる。 以降、コンドルは工部省、太政官、臨時建築局と、必要とされるごとにその活躍の場を移しながら、設計活動を続けた。
来日当初期間五ヶ年とされていた日本政府との契約も更新され、明治14年には絵師河鍋暁斎へ師事。 続いて明治26年、自宅に踊りを教えに来ていた前波くめと結婚。コンドルは深く日本にその根をおろしていった。 明治23年、臨時建築局廃止にともなって、コンドルは内務省名誉顧問となり、事実上官を離れた。
同年、三菱顧問となり、丸の内オフィス街計画を担当、明治27年には日本初のオフィスビル、三菱一号館を竣工させている。 三菱一号館は,赤煉瓦造り地階付き3階建ビルで日本初のオフィスビルとなった。 丸の内一には,『一丁倫敦』(いっちょう・ろんどん)と呼ばれる100mに渡り20棟もの建物が建ち並んだオフィスビル群が立ち並んだ。 またこの頃よりコンドルにはホテル、商館、邸宅などの注文が相次ぐようになり、なかでも邸宅建築の依頼と竣工はその没年近くに至るまで毎年のように続いた。
コンドルが手掛けた官庁建築や三菱時代のオフィスビルは、それらが各々の建築分野において嚆矢となった建物であっただけに 残念ながらことごとくがその後建て替えられ、残っていないが、後期の邸宅作品については、その幾つかが現存し、さまざまな形でこんにちも大切に保存されている。
またコンドルは,日本文化を海外に広めた功績も高い。 衣装,華道,庭園などをテーマにした 河鍋暁斎の門下生でもあり「暁英」の号をもらっている。
大正9年、コンドルは病に倒れた。 看病に疲れた,くめ夫人が不幸にもコンドルより先に亡くなっている。 コンドルはあとを追うように11日後,世を去っている。 日本人の女性と結婚して生涯日本で暮らしたジョサイア・コンドル。
彼の与えた影響は計り知れない。 護国寺には,娘であるヘレン・グルート夫人(日本名はる)の建立したコンドルの墓碑がある。 そこには,「LIFE'S WORK WELL DONE LOVING AND TRUE」と碑文が刻まれている。 東京大学工学部1号館前にはコンドルの銅像がある。
鹿鳴館の華 夫、陸奥宗光外務大臣の不平等条約の条約改正(15ヵ国全て)を支える

撮影年不明 と社交界の華亮子
陸奥宗光は芸妓出身の妻蓮子を亡くし、明治6年に後添えを得た。その名を亮子と言う。当時、17歳。彼女は明治維新で没落した士族の生まれであったそうで、徳川家旗本金田淡路守の娘、また播州竜野藩士の娘との説もある。士族の娘が花柳界や遊郭に身を沈めたという例は当時、多かった。柏屋の芸妓「小鈴」として、新橋で一二を争う美貌は評判となり、大いに売れたそうだ。しかも、「男嫌い」との評判もあり、身持ちは堅かったとか。
明治11年に夫の陽之助が政府転覆運動に加担した罪で投獄されている間、相思相愛の二人は往復書簡で支え合い、聡明な亮子は賢夫人として、立派に逆境を耐えた。この亮子は、陽之助の政界復帰後に、その美貌と聡明さで「鹿鳴館の華」陽之助の駐米公使時代には「ワシントン社交界の華」と謳われたのだ。
明治16年、現在の内幸町に建てられた鹿鳴館は、外国からの賓客の接待や舞踏会などが催された、文明開化の象徴とされると共に、西洋人の猿真似として、当時の退廃的文化の象徴でもあったかも知れない。
それにしても、その聡明さと美貌を外国人からも賛嘆、絶賛された亮子の有名な写真はワシントンのスタジオで撮影されたとされるが、確かに美しい。