更新日 2014年08月17日
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1869年11月開通 1900年頃のスエズ運河

1910年のスエズ運河 1858年から工事が始まり1869年11月17日に開通
1869年11月17日午前8時、運河は開通した。「東と西の結婚」と形容された開通式では、フランス皇后ユージェニーが乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切り、イギリスのP&O liner社船が続く総勢48隻がポートサイドから運河を渡り、オーストリア皇帝などヨーロッパ中から1000名以上の賓客が出席した。1867年以来、日本に駐在した英国外交官ミットフォードは、1870年に帰国のため、シンガポールからマルセイユまで搭乗したフーグリー号が「開通式に披露行事として通った船を除けば、我々の船が、営業開始後の一番目の船」となったと回顧としている。
運河開通直後、スエズ運河会社は財政難にあった。完工は1871年まで長引き、当初の2年間は運河利用数は予想を下回った。収益を改善するためレセップスは、1854年にイギリスの商船法へ導入された理論上の総トン数(en)で通行料を決めるムーアサム・システム (Moorsom System) に加え、船舶の実積載能力を算出基礎とする追加口銭 (tonneau de capacité) を上乗せする改訂を行った。続いて行われた商業上および外交的交渉の結果、コンスタンティノープルで国際委員会が開かれ、1873年12月18日付け議定書にて純トン数 (net tonnage, NT) の基準と料金表が定められた。これは、現在でも用いられるスエズ運河トン数 (Suez Canal Net Tonnage, SCNT) とスエズ運河特殊トン数 (Suez Canal Special Tonnage Certificate, SCSTC) の起源となった。 運河開通は世界貿易に劇的な効果をもたらした。6か月前に完工していた大陸横断鉄道と接続することで、地球を一周する時間は大きく短縮された。さらにヨーロッパのアフリカ植民地化に拍車をかけた。運河建設には一貫して反対して来たイギリスだったが、蓋を開けてみるとスエズを通過する船の8割がイギリス船籍だった。 (なお、1873年に日本の岩倉使節団も帰路に、スエズ運河を航行しており、当時の運河の様子が記録されている。)
1907年のパマナ運河開削工事 1914年の開通

1907年のパマナ運河開削工事

1914年のパマナ運河開通 全長約80キロ・メートル、最小幅91メートル、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートル
当初パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向した。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約がアメリカとコロンビアとの間で結ばれる。しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった。1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となったが、時の大統領セオドア・ルーズベルトのアメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手した。1903年から工事を始め、1905年から2年間は主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病の感染を防ぐためゴーガス医師と蚊の駆除に尽力し、そして海面式運河に代わり閘門とガトゥン湖を作ることを着想した。ナショナルジオグラフィックDVD「パナマ運河の完成を目指して」によると彼は道半ばにして謎の退職をすることになるが、結局3億ドル以上の資金が投入され、後任のジョージ・ワシントン・ゴースルツの下、予定より2年早く1914年8月15日に開通した。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。
1900年のイスタンプール

1900年 イスタンプール Ernst Jäckh (1875–1959) イスタンブール(コンスタンティノープル)市街のパノラマビューの全部

1900年 イスタンプール Ernst Jäckh (1875–1959) イスタンブール(コンスタンティノープル)市街のパノラマビューの一部
1517年にオスマン家はイスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブルは4世紀にわたりオスマンのカリフの首都として続いた。 1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法、オスマンの細密画が栄えた。イスタンブルの全人口は18世紀までに57万人に達した。
1836年に南岸の旧市街エミノニュ地区と北岸のガラタ地区の間に跳ね橋のガラタ橋が建設され、北岸の新市街としての発展を促した。
1880年代にイスタンブルはヨーロッパの鉄道網と結ばれ、1883年に運行を開始したオリエント急行は、1888年にイスタンブルへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブルは直接結ばれることとなった。安定的な水道や電気、電話、路面電車など近代的な施設が他のヨーロッパの都市に比べ後であるが、イスタンブルに後の数十年間にわたり徐々に導入されていった。