更新日 2014年08月17日
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李氏朝鮮時代の写真 漢城府の門
昭義門(漢城府西南の門) 撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891)

昭義門(漢城府西南の門) 撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
門外は処刑場であった。通常、凌遅処死刑などはそこで執行され曝された。それについての記述には明治15年3月報告の「昭義門外死尸暴肆ノ件外一件」などがある。しかし、金玉均遺体が凌遅を執行されたのは楊花津に於てであった。
南大門(崇禮門)城外側 撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891)

南大門(崇禮門)城外側 撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
漢城府は大河の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭隘であり、人家が密集している。およそ3万戸以上はあろう。城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。方位から言う場合は南大門と称する。門内に入れば西北に一大街路がある。幅は20メートル余りである。市街は大抵瓦屋根の家である。しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に矮小の藁屋が列をなす。ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なこと名状し難い。
「王宮や後宮から街、道路、橋にいたるまで、塵芥が丘陵を成し、糞屎は金を塗るが如し。これ外国人が大いに恐れるところ、そして嘲笑するものなり。見るところ極めて美しからざるのみならず、その蒸発の気は必ず疫病を醸成するものなり。(アジ歴資料「韓国人朴泳孝建白書」p23)」
藁屋の床店  『街路は市中に一二の大道あるのみ。そのほかは悉く狭小なり。道路幅は二間内外(4メートルほど)に過ぎず、糞穢が路傍に流れて溢れ、不潔なること名状し難い。また泥濘が多くて歩くのが困難である。・・・大門の幅十二三間の路傍に各種商人の藁屋の床店が並んで道幅を狭める。本屋、穀物商、魚菜店、布売り、骨董店、陶器店などあり。本屋では見るに足りない支那の古書や自国史のみでひとつも参観に供するものはない。法律書、地誌、近世歴史などのようなものの発売は国禁にかかわると言う。』(高雄丸韓国沿岸測量一件/2 明治十年 朝鮮紀事 p39)
南大門(崇禮門)門と城壁 撮影年代 1904年 写真:中央日報

1904年 李氏朝鮮末期の南大門 写真:中央日報
西大門(敦義門)撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891)

西大門(敦義門)撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
汚水が路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層臭気を覚える。その他の道は、4、5メートル余り。凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。人家が道に出っ張っているのと、引っ込んでいるのとが並んでいて、頗る不整である。
北門(彰義門)撮影年代 1890年 

1890年 漢城府の彰義門 (北門・紫霞門とも呼ばれています)
彰義門(チャンイムン)は城郭の北小門で、「紫霞門(チャハムン)」という愛称でも呼ばれています。北大門である粛靖門(スッチョンムン)は常に閉鎖されており、その果たすべき役割を果たせていなかったため、この彰義門が代わりにその役割を果たしていました。そのため、人々は彰義門のことを北門と呼んでいました。 城の北側の郊外へ出たり、門近くの洗剣亭や北漢山へ行く場合にはこの門が関門となるため、利用量は少なくありませんでした。昔、彰義門の近くには紫色の霞が多くかかっていたため、彰義門の外は「紫霞の外」とも呼ばれていました。
彰義門に関する歴史で、仁祖反正(インジョパンジョン)という事件を語らずにはいられないでしょう。仁祖反正とは、朝鮮時代の1623年、李貴(イ・ギ)ら西人勢力が第15代王の光海君や集権党の李爾瞻(イ・イチョム)などの大北派を追い出し、綾陽君(ヌンヤングン)を王に就かせた反乱です。1623年3月12日、李貴、金濡(キム・ユ)、金自点(キム・ジャジョム)、李适(イ・グァル)らは反正計画を遂行する過程で計画の一部漏れはしましたが、予定通りに実行に移し、反乱軍は彰義門に向かって進軍し、宮殿の占領に成功しました。これに驚いた光王君王は、宮殿の後門から逃げ、医官である安国臣(アン・グクシン)の家に隠れていましたが、後に島流しとなりました。そして、綾陽君が王となるのですが、綾陽君とは第16代王の仁祖(インジョ)のことです。
時は流れ、第21代王の英祖(ヨンジョ)はこの事件を記念し、彰義門の城門と門楼を改築し、反乱功臣たちの名前を板に刻み掛けました。彰義門の門楼に掛けられた板は、今なお門楼に掛けられています。
朝鮮王宮光化門(1906年)

朝鮮王宮光化門(1906年)
景福宮の正門として、当初「四正門(サジョンムン)」という名称で太祖4年の1395年に創建されました。 1425年に「光化門」に変更し、1592年の文禄の役で景福宮とともに焼失。約270年後の1864年(高宗1年)、景福宮再建の際にその姿を取り戻したものの、日本植民地時代の1927年に朝鮮総督府が景福宮東側に光化門を強制移転しました。1950年の朝鮮戦争で再び焼失し、1968年に鉄筋コンクリートで復元されるという波乱の歴史を経てきました。そして、高宗当時のもとの位置に戻すため、約4年の復元工事を経て2010年8月15日に新しい姿に生まれ変わりました。
迎恩門 朝鮮王が中国皇帝の使者を、三跪九叩頭の礼を行い迎える門

迎恩門 1896年に柱礎だけを残して取り除かれる。従って1896以前の撮影は間違いがないであろう。

撮影年不明 迎恩門の柱礎(左側の2本) 右側の門は1897年に作られた独立門
迎恩門は漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた。中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国の皇帝の使者を迎えるための門であった。朝鮮の王は、中国の皇帝の使者に対し、『三跪九叩頭の礼』を行い迎えた。
1407年には慕華楼という使臣のための建物が建てられていたが、1536年に金安老の建議でそのそばに「迎詔門」を立てた。しかし1539年に明の使臣で来た薛廷寵は、使臣は中国皇帝の詔書や勅書や下賜の品々を持ってくるのに、門の名前が「詔だけを迎える」ではおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮側は名前を「迎恩門」に変えた。
1606年に来た明の使臣朱之蕃が書いた門の扁額が国立古宮博物館にある。
日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮は離脱した。 こうして大韓帝国が成立、独立協会は迎恩門を取り壊し、1897年に独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てた。迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は独立門建立時に独立館に改名された。
独立門 1897年に清国から独立した事を記念して造られた門

独立門 1897年撮影
左側の2本が迎恩門の柱礎 右側が独立門 その間の奥に慕華館(改名した独立館となる)
独立門は、大韓民国ソウル特別市西大門区峴底洞101番地の独立公園内にある門。1896年11月21日定礎、1897年11月20日完成。
フランスパリのエトワール凱旋門を模して作られた。史跡第32号(1963年1月21日指定)。1979年に整備事業により本来の位置から北西に70m移動された。
日清戦争により日本が清に勝利し、下関条約にて清の冊封体制からの李氏朝鮮の独立を認めさせた。これにより李氏朝鮮は清の支配から解放され、自主独立国家として歩みだすことになり、その記念として清への服属の象徴の一つであった迎恩門を壊し、そのすぐ隣に建設された。また、迎恩門に隣接して建てられた慕華館は独立館と改名された。建設には、朝鮮の開化派の独立協会が中心となり、募金を募り建てている。
韓国においては独立門建設の歴史背景が正しく教えられておらず、独立門は「日本からの独立」を記念する門であると誤解されているという。正しくは「清の冊封体制からの独立」を記念したものである。
迎恩門を撤去し、独立門を作り上げた1896年~1897年の、朝鮮半島の時代背景が面白いです。優秀な人材が多く出てきて、封建制度から民主制度へ大きく転換をしようとしています。後日、別のページで詳しく調べてみたいと思います。(管理人への課題としておきます)