更新日 2014年08月17日
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李氏朝鮮時代の写真 監獄 刑罰 拷問
李氏朝鮮時代の監獄

朝鮮(大韓帝国時代)の「監獄」。当時の監獄施設が劣悪な環境にあったことが窺われる写真である。
(韓國出版協會發行「韓國寫眞大觀」)より。
李氏朝鮮時代の刑罰 首枷(くびかせ)

首枷を課せられた罪人 中央の男性は右手を木に固定されている。

首枷を課せられた罪人

首枷を課せられた罪人
李氏朝鮮時代の刑罰 笞刑(ちけい)

(朝鮮風俗)笞刑 WHIPPING PRISONER 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた。

(朝鮮風俗)笞刑

(朝鮮風俗)笞刑

撮影年代不明。朝鮮の笞刑は、女にも容赦なく行われた。
写真とは関係ないが、明治7年4月の森山理事官の記述には「殊に其の妻懐胎なりしに猶笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると」とある。(「朝鮮始末(一)」p125)
李氏朝鮮時代の刑罰 周牢(チュリ)
16歳以上の容疑者におこなわれる拷問(刑)の一つで、中国大陸から渡って来たものと言われており、日本では江戸時代を始めどの時代にも有りませんでした。姦通罪、反逆罪を犯した(容疑者)、天主教信者に背教を受け取る手段でたくさん利用され、女性にも適用されました。
足を固定両膝と腕を縛った後二つの木の棒を向こう脛または太ももの間に挟んで両端を交錯(クロス)するようにねじりながら曲がるようにする刑罰です。この刑罰を長く受ければ大部分は腿骨の骨折、若しくは膝関節脱臼です。棒をクロスさせて力を入れますので、拷問と言うよりも刑罰に近いです。
日本統治時代に、欧米先進国に知り渡り、余りの残酷さに日本総督府により鞭打ちの刑と共に禁止となりました。

撮影年代不明。骨折・脱臼を目的とした刑罰

撮影年代不明。骨折・脱臼を目的とした刑罰
当時フランスの宣教師の目撃談。
棒の使い道は、チュリ「주리 (juri=周牢)]の刑罰を与えることにあった。囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人たちは、自分の体重をすべて棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつに凄惨なものだった。足の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も囚人の凄絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにかかわらず、上体を起こした刑囚は、ほとんど座った姿勢になった。
顔には、死人のそれのようにまったく血の気がなく、唇は、固く閉じられてひとつの細い真っ青な線になっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力なく垂れた。体がだらりと地面にのびた。刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。
刑が執り行なわれる間、まわりでは見物人が目を見張りながら見ていた。彼らは、首を長く伸ばしながら、一瞬たりとも見逃すまいと息を詰めたまま悲劇の現場を見守っていた。
ただ、首伽をはめられた囚人たちだけは、まるで対岸の火事を見ているようであった。彼らは、一言も交わさず前方を凝視するばかりだ。自分たちも、いつかこのような自にあうかもしれない。たとえ刑場の露となるさだめを免れた者であっても、刑期をつとめる間に少なくとも一度はなんらかの拷問を経験している。そのときの苦痛が、他人の痛みを目のあたりにしながらも無関心でいられるようにしたのかもしれない。
気絶した囚人は、ややあって意識をとりもどした。カなく首を左右にゆすりながら呻き声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に・・・・。 これ以上は、残酷過ぎて書けません。
ロンドン・デイリーミラーの記者マッケンジー
「明治三九年夏、二つの監獄を実際に訪れてみた。・・・・・次の監獄、宣川(平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている三人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。一人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの一人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」