更新日 2014年08月17日
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ポツダム宣言
「 ポツダム宣言 」 の概要
「 ポツダム会議 」 の説明
ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた。会議の最後にはポツダム協定が策定された。
友好的な雰囲気で進められたが、その成果は乏しいものであり、合意を見たのは外相理事会の設立、ドイツ占領に対する原則の合意、ソ連のケーニヒスベルク領有、ポーランド亡命政府の解消のみであった。ソ連のメディアは会談が大成功であったと報じたものの、アメリカとイギリスの首脳や両国のメディアはこの会談を評価しなかった。
トルーマンはソ連が平和について熱心でなく、西側との対決姿勢を強化していると感じており、日本の占領管理についてはソ連に一歩も譲らないと決意したと回想している。チャーチルはソ連に対する不満を最初から隠そうともせず、その後もソ連とその占領地域における政策の批判を続けた。一方でソ連側は米英のドイツに対する態度が寛大すぎると考えており、ソ連が勝利の結果として受け取るべき報酬を奪おうとしているのではないかという疑念を強めた。またフランスのシャルル・ド・ゴールは会議への参加を要求していたが、スターリンの拒否によって参加できなかった。このためフランスはポツダム協定に拘束されず、ドイツの占領政策において他の連合国に対する反対を続けた。これは後にソ連側の協定無視を呼び込むこととなり、会議の成果はますます減少していった。

1945年7月17日~8月2日 ドイツベルリン郊外のポツダムに、米国・英国・ソ連の3カ国の首脳で行った会議

ポツダムに集まった3ヶ国首脳。
後列左から、米国参謀長リーヒ 英外相ベヴィン 米国務長官バーンズ ソ連外務人民委員モロトフ
前列左から、英国首相アトリー 米国大統領トルーマン ソビエト連邦共産党書記長スターリン。
「 ポツダム宣言 」米国・英国・中華民国の三国によって発せられた宣言
1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、全13か条から成る宣言。この宣言にはソ連が入っていない。
米国・英国・中華民国の三国から、「第6~12条の条件を受け入れ、日本国からは条件を出す事を認めない。従わないと日本国は完全に壊滅しますよ!」の内容で降伏勧告が宣言された。
ただし、宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。
「 ポツダム宣言 」1945年8月14日 日本国が受諾を通告
1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。

1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン
「 ポツダム宣言 」1945年8月15日 天皇の玉砕放送
8月6日に広島に原子爆弾投下、7日にソ連の対日宣戦布告、9日に長崎に原子爆弾投下により、従来の本土徹底抗戦方針が揺らぎ、9日に国体の保持(すなわち天皇制の存続)を条件として受諾を決定したものの、「無条件降伏」条項をめぐって御前会議は紛糾、天皇の裁断を仰ぐという異例の事態となっていたのである。この玉音放送は事前にレコード録音されたもので、降伏に反対する一部の青年将校が、この録音盤を奪取をはかろうとする反乱計画もあった(結局未遂に終わる)。ある音声分析家の話によると、この玉音放送での天皇の声は緊張に震え、今にも泣き出しそうになるのをなんとかこらえていたのではないのかと分析している。確かに有名な一文「朕は時運の赴く所堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分は、一部で途切れ、ここで感極まっているようにも聞こえる。

1945年8月15日正午、天皇は国民にラジオ放送を通じて終戦の詔勅(いわゆる玉音放送)を発した。
「 ポツダム宣言 」米国が宣言を作成までの背景
1945年1月のヤルタ会談においてはルーズベルトがすでに病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月にルーズベルトが死去し、副大統領のトルーマンが後継大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった。
ドイツ降伏後、トルーマンは日本に対して無条件降伏を求める声明を発表した。またアメリカ政府による日本に降伏を求める、エリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった。
アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦、コロネット作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲をともなうことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた。
1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。陸軍長官ヘンリー・スチムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。陸軍次官補マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もしわれわれが通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方のないことだと思いますよ。」「われわれがよしとする条件を日本政府に対して説明してやることです。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存することを許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めてやるということです」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スチムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷がつくという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本にたいするメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたもと見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった。