更新日 2017年09月22日
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「支那事変」の期間
「戦争」と「事変」の違い
「事変」とは
「事変」とは、警察力ではしずめ得ないほどに混乱し拡大した騒乱の事で、国家間で「宣戦布告」をしないで行われた武力行為をあらわす。
宣戦布告された事変が「戦争」と言われ、宣戦布告が行われることが「事変」と「戦争」の違いとなる。
「事件」と「事変」の違いは規模の大きさ・影響力・期間の長さの差により、分けられているようである。
「事件」<「事変」<「戦争」
日本が「宣戦布告」しなかった理由
「国際的孤立を避けたい!」
1929年に世界恐慌が起こる。1930年代は植民地を持つ帝国主義国が支配している植民地を囲い込み「経済ブロック」を形成していく事になる。英国が「スターリング・ブロック」、フランスが「フラン・ブロック」、アメリカが中南米を中心に「ドル・ブロック」を作り上げていく。これらの宗主国の植民地の獲得方法は「侵略・略奪」を繰り返し、富を全て奪い尽くしてきているのである。
植民地を持たないドイツ・イタリア・日本は、国内の抱えている多くの失業者を支えるために、「自給自足圏」の確保するために軍事的侵略の道を選ぶ事になる。ドイツは排外主義をかかげるナチスが権力を掌握すると、東ヨーロッパから中近東への進出を目指していく。イタリアはファイスト政権の下で、北アフリカからバルカン半島さらに中近東への野心を持った。日本は「大東亜共栄圏」を構想したが、それはアジア市場に「円ブロック」を築くことを目指していく。
日本が大陸・東南アジアに経済ブロックを作ることは、当時の常識では決して悪い行いとは言えない。英国がインドを支配し植民地として行った事、オランダがインドネシアを350年支配して富を奪った事、アメリカが米西戦争でキューバ・フィリピンを植民地にした事、フランスの北・西アフリカ・インドシナ半島を植民地とした方法に比べると、日本の朝鮮半島・台湾・満州への進出は当時の国際社会では正当な方法で支配・影響地域を広げている。
南北戦争でアジアへの進出が遅れたアメリカは、1898年にハワイ併合、フィリピン独立革命政府を完全に鎮圧で、アジア・大陸への植民地獲得を本格的に始める。1914年パナマ運河の運航開始されている。
満州事変と満州国の調査の為に国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団(リットン調査団)が、1932年10月2日に報告が行われている。日本が軍事行動をとったことを自衛とは言えないとしたうえで、法律論及び事実の両面から満州国の分離独立を承認すべきではなく、日本軍が満州鉄道の鉄道地区まで撤退すべきであるとした。また日本の特殊権益を確認したうえで九カ国条約の原則を維持することを勧告した。この総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立し、日本軍の自衛行為や満州国建国の自発性が否認された。松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、3月8日に国際連盟を脱退している。
当時の列強の軍事力・経済が中国に集中していたといえるであろう。日本がその権益を独占する事を快く思わない国がいろいろな方法で中国に影響力を及ぼそうとしていた。
日本と支那の揉め事を地域的な紛争に留め、国際社会の矢面に立たないで解決した思惑が日本には有った。支那事変では支那に大陸奥地まで紛争に引き込まれた側面もある。詳しくは別ページで書きたいと思いますが、この事変を今の感覚で「自衛」「侵略」と議論することは適切ではないであろう。
支那が「宣戦布告」しなかった理由
アメリカから「軍事的支援を受け続けたい!」
支那の場合「戦争」となれば、戦時国際法によって交戦国以外の第三国(中立国)が交戦国に援助することが禁止(中立義務)されているので、当時中立国のアメリカから大きな援助を受けていた支那にとって「宣戦布告」をする事ができなかった。
「支那事変」の始まりと終わり
「支那事変」の始まり