更新日 2014年08月17日
トップページ
東京裁判 裁判官忌避の緊急動議
清瀬一郎弁護士 裁判官忌避の緊急動議 1945年5月6日

1946年5月13日 裁判官忌避の緊急動議を提出し、キーナン首席検事と激しくやりあう清瀬一郎弁護人

【 YouTube 】1946年5月13日 清瀬一郎弁護人 裁判官忌避の緊急動議を提出 ウェッブ裁判長 退廷
清瀬一郎弁護人 裁判官忌避の緊急動議 発言内容
清瀬一郎弁護人「裁判長、その前に動議があります。裁判官に対する忌避の申し立てです」
ウェッブ裁判長「忌避申し立てとは何か」
清瀬一郎弁護人「今、申し上げます。私は裁判官のそれぞれに忌避を申し立てます」
ウェッブ裁判長「あなたは裁判官のそれぞれに忌避を申し立てるのですか」
清瀬一郎弁護人「そうです」
ウェッブ裁判長「理由をのべなさい」
清瀬一郎弁護人「まず、ウィリアム・ウェブ裁判長に対する忌避の理由を申します」
ウェッブ裁判長「いかなる理由か」
清瀬一郎弁護人「ニューギニアで日本軍の不法行為について調査し、オーストラリア政府に報告しているからです」
ウェッブ裁判長「私が行った報告と私が裁判長として座ることには何の関係もない。休憩を宣します。適当と思う時に開廷しますが、私はあなたの言ったことに関与できません。裁判所として続けるとしても私は立ち会いません」
キーナン検事「そういう動議は文書にして提出すべきだ」
ウェッブ裁判長「法廷が小さなことで支配されることはありません。規則を作る必要がある」
清瀬一郎弁護人「動議は緊急に発生するものであるから動議なのです。ニューギニアについての裁判長の報告には、日本軍の残虐行為、殺人について述べています。これは本法廷の被告にも関係します。ゆえに、裁判官としてふさわしくありません」(検事が裁判官を兼ねるから不適切であるということ)
ウェッブ裁判長「休憩を宣言します。他の同僚裁判官がこの議論を聞きたいというのなら出席しますが、私は出席しません」
  【 ウェッブ裁判長以下が退廷し、十五分の休憩の後、ウェブ裁判長に代わってニュージーランドのノースクロフト裁判官が裁判長席に着き、次のように発言した。】
ノースクロフト裁判官「当裁判所は、各判事別々に対する忌避は許可しないことに決定しました。各判事は、マッカーサー元帥から任命されております。ゆえに、裁判官を欠席させるわけにはいきません」
  【 ウェッブ裁判官が再び登場し席に着いた。】
ウェッブ裁判長「この法廷の裁判官を引き受ける前に、私の前歴を慎重に検討しました。その結果、多くの人に指示されることを確信していました」(続く)
清瀬一郎弁護人の正論の緊急動議に対し、急所を衝かれたウェッブ裁判長は理性を失い顔面蒼白になり、強引に休憩を宣言して対策を練るために引っ込んでしまった。そして再開した法廷で「忌避動議却下」と言い渡し、予定の罪状認否に入ってしまった。罪状認否はわずか9分間で終わり、ウェッブ裁判長は次の審理は5月13日に行うと告げて休廷した。
【 忌避 】の意味
【 忌避 】とは、、裁判官や裁判所書記官に不公正なことをされるおそれのある場合に、当事者の申し立てにより、その者を事件の職務執行から排除すること。また、そのための申し立てをすること。
【 動議 】の意味
【 動議 】とは、、訴訟の両当事者(主に弁護側ですが)は、裁判長に対して以下にあげる動議(Motions)を申し立てることが出来ます。
  • 公訴棄却の申立
  • 証拠排除の申立
  • 証拠開示の申立
  • 明細要求の申立
  • 事前差止動議:証拠の使用をあらかじめ禁ずる
  • 裁判地変更の申立
  • 訴訟手続き延期の申立
  • 精神鑑定の申立
  • 訴訟分離の申立
  • 裁判官忌避の申立
  • 起訴取消の申立
  • 特定証言禁止の申立
清瀬一郎弁護人の主張する「裁判官忌避の動議」の内容
ウィリアム・ウェッブ(オーストラリア)は法廷に持ち出された事件に、前もって関与していたので判事としては不適格である。裁判長のウィリアム・ウェッブはニューギニアにおける日本兵の不法行為を調査して、それをオーストラリア政府に報告した者であり、これはウェッブがすでに検事的な立場で日本軍とかかわりを持ったことを意味する。この経歴では、公平・中立が求められる裁判官には適していないので、担当裁判官の変更を要求している。
清瀬一郎弁護人の発言の中に、「まず、ウィリアム・ウェッブ裁判長に対する忌避の理由を申します。」とあります。「まず・・」なので、2番目以降の「裁判官忌避の動議」の事由があるはずですが、ウェッブ裁判長によって打ち切られている。清瀬一郎弁護人の動議を全て聞くべきであった。そして、却下の正当な根拠を提示してから予定の罪状認否に進むべきであった。
「この法廷の裁判官を引き受ける前に、私の前歴を慎重に検討しました。その結果、多くの人に指示されることを確信していました。」のウェッブ裁判長の発言では却下の根拠にはなっていない。
清瀬弁護人が指摘したウェップ裁判長の調査とは、500人の生存者から聞いて作成した報告書で、ラバウルを占領した日本軍がおよそ150名のオーストラリア人と原住民を虐殺したというもので、日本軍の犯罪摘発者としてウエッブの名は各国に知られていた。オーストラリアの「シドニー・モーニング・ヘラルド紙」にも、「ウェップは、日本の残虐行為の調査をおこないオーストラリアと英国政府に報告書を提出した。検察官の役目を果たしたウェップが、日本を裁く国際裁判の裁判長をつとめる資格があるのか」との記事が掲載された。この記事をアメリカ人弁護士ファーネス大尉に見せられた清瀬弁護士が利用したのだ。近代法の常識として、被告と親族に恩怨関係にある者、事件の告発、起訴に関係した者は裁判官にはなれないとされている。
「裁判官忌避の動議」のその他の根拠
判事の公平・中立について
11人の判事がすべて戦勝国側の人間だった。常識的に考えれば裁判は中立でなくてはならないのだから、もし戦勝国から判事が出るのであれば、それと同数の判事を敗戦国側からも出さなくてはいけない。そうでないとすれば、裁判官全員を中立国から出すべきである。以下に判事の名前・国籍を記しておく。
  • ウィリアム・ウェッブ(オーストラリア連邦) - 裁判長
  • マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国)
  • ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)
  • イワン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦)
  • アンリー・ベルナール(フランス共和国)
  • 梅汝敖(中華民国)
  • ベルト・レーリンク(オランダ王国)
  • E・スチュワート・マックドウガル(カナダ)
  • エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド)
  • ラダ・ビノード・パール(イギリス領インド帝国)
  • デルフィン・ハラニーリャ(アメリカ領フィリピン)
デルフィン・ハラニーリャ判事の経歴(アメリカ領フィリピン)
デルフィン・ハラニーリャ判事は、バターン半島で日本軍の捕虜になった人物である。被告に恨みを持つような人間が裁判官の側にいたら、公正な裁判を望むことは不可能である。
裁判の協定用語(法廷での公用語)を理解できない判事が選任されている
ソビエト社会主義共和国連邦のザリヤノフとフランス共和国のベルナールらは協定用語(法廷での公用語)である英語又は、日本語を両方共に理解できなかったので不適格である。
高度の経験・判断力が求められる裁判に、法曹経験のない判事が選任されている
中華民国から派遣されている梅汝敖にいたっては、裁判官の経験が全く無い、法曹とは無関係の人が選任されている。
梅汝敖は、1924年に清華大学を卒業した後、アメリカに留学し、1926年に、スタンフォード大学を卒業した(文学士)。1928年にはイェール大学のロー・スクールで、法務博士の専門職学位を取得した。だが、学位は持っていても裁判官経験のないアマチュアである。アマチュアが不適切であるならルーキーと言い変えよう。このホームページを読まれている方で、もし貴方が脳腫瘍を患っていて手術をしなければならなくなった場合に、医学校は卒業しているが手術の経験が無い、医師免許取り立ての医者に手術を依頼しますか?。そしてその医者が貴方に強い偏見を持ってたら・・・。貴方に手術担当医師の交代を求めることができれば、経験豊富なベテランで個人的な偏見のない医師に依頼するでしょう。梅汝敖は論外です。梅汝敖は裁判が始まる前から、日本国および日本人に悪意を持っています。公平・中立とは程遠い人物です。(この段落は管理人の意見です。)
中華民国派遣されている梅汝敖の経歴 ウィキペディアより抜粋(2013年10月20日)
1924年に清華大学を卒業した後、アメリカに留学し、1926年に、スタンフォード大学を卒業した(文学士)。1928年にはイェール大学のロー・スクールで、法務博士の専門職学位を取得した。
1929年に帰国した後は、南開大学、武漢大学教授を経て、行政院院長の宋子文、外交部部長の王世杰の助手となった事を皮切りに、内政部参事、立法委員といった、国民党の要職を歴任した。
第二次世界大戦終了後は、東京裁判に中華民国の代表判事として本国での法曹経験は無かったが国民党政府から派遣された。梅はウェブ裁判長の定めた、米英中という席次に対して日本投降順にすべきだと猛反発し、最終的にはウェブ裁判長の隣の席を得る事となった。
また、梅は反日主義者としても知られ、後に開廷前後の日記が(後述の文化大革命の際に、大部分が散逸した)「東京大審判」として出版され、その中では、「この28人の殆ど全てが中国に損害を与えた」(5月2日付)、「『民族優越主義』というでたらめな理論を唱え、国民を毒し、国民に威張らせ、中国を飲み込み滅ぼし、アジアを席巻し、世界を征服しようとした」(5月4日付)と日本を痛烈に批判している。特に、被告のうち土肥原賢二を「中国を分裂させ、内乱を起こさせた専門家」、松井石根を「南京大虐殺の総指揮者」、板垣征四郎・小磯國昭・梅津美治郎の3名を「中国侵略の達人」と記した。また、ウェブ裁判長等と同様に天皇の起訴にも強い意欲を見せており、「天皇が日本の侵略戦争に何の責任もないとはどうしても思えない」、「裁判官たち個人レベルの会話でも、しょっちゅう議論され、大多数の人は私と同じ見方を持っている」(4月8日付)と主張し、免責決定後には「政治的理由で起訴を免れたが、将来、再び提訴される日が来るだろう」(5月7日付)と認めている。
東京裁判終了後には、司法行政部部長に就任したが、東京裁判中に国共内戦で共産党が優勢となった頃から、共産党のスパイとしての活動を始めるようになり、この事から、監察院から「共産党のスパイ」という容疑をかけられ、国民党を追放された。
中華人民共和国成立後には、国務院特別顧問となり、後に全国人民代表大会代表や中国人民政治協商会議代表等を務めた。しかし、文化大革命の際に批判の対象となり失脚し、1973年に北京で亡くなった。
南條岳彦氏の「 昭和の大戦争 」より、東京裁判の模様を抜粋。
南條岳彦氏の「 昭和の大戦争 」より、東京裁判の模様を抜粋。 1945年5月3日の模様
5月3日、市ヶ谷の極東国際軍時法廷は定刻の10時半より遅れて午前11時20分に開廷が宣言された。シンガポールから移送された板垣征四郎(関東軍参謀長・第一次近衛内閣陸相)と木村兵太郎(近衛・東条両内閣陸軍次官 ビルマ方面軍司令官)が到着するのを待っていたからだが、先着した巣鴨組の26人は押しかけた内外の報道陣からたっぷり取材された。記者たちは久しぶりに接した首相や大臣など要人たちに往時の威令はなく、しょぼくれた老人にしか見えなかった。とくに松岡洋右は結核を悪化させ、やつれはてた姿で杖に縋って歩くのがやっとの凋落ぶりで、ひと目で重病人とわかる。こんな病人を強引に引っ張りだして裁くのは人道上の問題である。大川周明はパジャマの上着をだらしなくまとい、常軌を逸している。元将軍たちも軍服を脱ぐと疲れた表情で生気がない。
ウエップ裁判長が開廷の辞を読み上げ、キーナン検事が各国検事を紹介すると裁判長は休憩を宣言した。
傍聴席は法廷全体を見渡される中2階にあったが、日本人傍聴者はうっかり席を立てなかった。トイレにいこうと思えば、日本人は地下まで降りなければならない。1階以上のトイレには「日本人使用すべからず」の張り紙がしてある。日本人の傍聴人がトイレにいったりすれば、座席は外国人に占領されて座る場所がなくなる。日本人差別は、弁護士にも適用された。外国人弁護士は2階に個室もしくは2人で1室を与えられていたが、日本人弁護士の控え室は一階の大部屋で、共用の大机が用意されただけだった。弁護人の中には、炊事場から水を汲んできて、床にあぐらをかき、持参したイモや自家製パンの代用食弁当を食べるものもいた。食糧事情は益々悪化して、一般庶民も弁当に不自由していた。弁当でいえば被告たちは優遇されていた。タバコつきの米軍野戦食を支給されていたからだ。巣鴨拘置所の食事も粗末になり、タバコにも不自由していた被告たちは野戦食の詰め合わせを歓迎した。
午後も引き続き起訴状の朗読がつづけられたが、翻訳された日本語は意味不明で、通訳の拙さにあきれているうちに機械的に朗読がすすめられ、法廷内はだれた雰囲気だった。
上下二段に分けられた被告席の前列に座っていた東條被告のうしろの席にパジャマをシャツがわりに着ていた大川被告がいて、ボタンを外し前をはだけて腹をみせた。
来賓席で「キャッ」と女性の悲鳴が聞こえた。
うしろにいた法廷の憲兵隊長ケンワージ中佐が、ボタンをかけてやると、大川被告は前の東條被告のはげ頭を軽くたたいた。手首をスナップするような軽いたたき方だったので音もせず、気がついた人は少なかった。東條被告もふりむき大川被告の仕業とわかり苦笑して正面を向いた。大川被告は、隣の被告平沼騏一郎に話しかけ、ケラケラ笑いながらまたパジャマのボタンをはずしだした。
会場の記者、カメラマンも大川の奇妙な行動に気がつき、大川を注視していると、今度はペタンと音が聞こえるほど東條の頭をたたいた。法廷内には爆笑が起こり、裁判官に向けていた視線を背後の大川に移した東條は、憮然とした表情だった。大川は、ケンワージ中佐に両肩を押さえられて、ウエップ裁判長は「休憩」を宣言し、外人記者たちが被告席の大川のもとに集まった。
大川が東條のハゲ頭を叩く場面はニュース映画で全国に紹介された。まだ裁判が始まったばかりで、戦争後半からつづいていた塗炭の苦しみの中にあった庶民は、軍人に対する恨みを抱えていた。その軍人の代表が東條で、その東條が大川に叩かれたことに多くの国民が溜飲を下げた。
1945年5月4日の模様
翌日の5月4日は土曜日だったが、前日に読みきれなかった起訴状を朗読し、清瀬弁護団長が日本人弁護士を紹介し、月曜日に罪状認否をおこなうことで休廷となった。
ウエップ裁判長は、大川の精神鑑定が必要と判断して退廷を命じ、大川は控え室で、MPの監視下に置かれていたが、取材に訪れた米人記者に「東條はバカだ。殺さねばならぬ」と英語でコメントしていた。
大川は米軍野戦病院と東大病院で診察を受け、起訴状に対する答弁能力なしと判定され、松沢病院に入院して免訴となり東京裁判から除外され姿を消した。
ただし、松沢病院入院中に、イスラム教の聖典「コーラン」を翻訳し、仮病の説もでた。
1945年5月6日の模様
5月6日、法廷は被告の罪状認否が予定されていたが、冒頭、小林俊三弁護士から、松岡洋右被告の病状が悪化しており、本人の罪状認否のときは出廷しても、それ以外のときは控え室で休憩させてほしいと要請した。
 ウエップ裁判長は、「被告松岡は、すぐに卒倒する状態か」と質問し、「そのような心配がある」小林弁護人が答えると「申し出は休憩中に決定する」と答えた。
弁護団は、起訴状をはじめ翻訳が不適切で誤りが多いと指摘して善処を求めた。
キーナン検事は、「起訴状翻訳には日本人の専門家も動員した。誤訳があったら訂正すればよい。それより、この裁判をどんどん進行させよ」と主張した。
「被告にとって、もっとも重要なことは、翻訳にまちがいがあるかどうかでなく、自分にかけられた犯罪容疑に疑問があれば、自分の弁護人に聞けばはっきりする」
とウエッブ裁判長もピントはずれの暴論を吐いた。
とにかく清瀬は、今後疑義がおこる度に提議するしかなかった。
「では、被告の罪状認否に移る」とウエッブ裁判長が述べた。
「裁判長、この裁判を真に歴史的使命を全うさせるための動議があります。また裁判官の忌避申し立てもございます。発言をお許しください」
よれよれの背広に軍靴を履いた清瀬弁護人が発言した。
ウエッブ裁判長は、忌避する理由を簡単に述べてほしい、といった。
「まず裁判長サー・ウィリアム・フラッド・ウエップ閣下に対する忌避の理由を申し述べます。第一の理由は正義と公平な裁判を進めるのにウエップ卿は適当ではありません。第二は、昨年7月のポッダム宣言の趣旨を守って、この裁判をするのは不適当であります」
とことばを続けた清瀬弁護人に、もう少し詳しく説明してくださいと裁判長はいった。
「ウエップ卿は、ニューギニアにおける日本軍の不法行為について調査し、オーストラリア政府に報告されています」
「私がニューギニアその他の地方で調査して報告したことが、私が裁判長としてここに座ることに関係があるとは思いません。当法廷は、休憩を宣告します」
清瀬弁護人が指摘したウエップ裁判長の調査とは、500人の生存者から聞いて作成した報告書で、ラバウルを占領した日本軍がおよそ150名のオーストラリア人と原住民を虐殺したというもので、日本軍の犯罪摘発者としてウエッブの名は各国に知られていた。オーストラリアの「シドニー・モーニング・ヘラルド紙」にも、「ウエップは、日本の残虐行為の調査をおこないオーストラリアと英国政府に報告書を提出した。検察官の役目を果たしたウエップが、日本を裁く国際裁判の裁判長をつとめる資格があるのか」との記事が掲載された。この記事をアメリカ人弁護士ファーネス大尉に見せられた清瀬弁護士が利用したのだ。近代法の常識として、被告と親族に恩怨関係にある者、事件の告発、起訴に関係した者は裁判官にはなれないとされている。そこを衝かれたウエップ裁判長は苦しまぎれに休憩を宣言したが、はたしてどんな決着がつくのか、被告、弁護側はもちろん、全員が息を呑んで見守っていた。
15分の休憩がおわり、被告、弁護両団が着席すると、バンミーター大尉の起立の号令がかかりと、全員が立ち上がると判事団が入廷した。ウエップ裁判長の姿はみえなかった。しかし、裁判長席にはニュージーランド代表判事エリマ・ノースクロフトが座った。ノースクロフト判事は、法廷の裁判官は裁判所条令にもとづき、連合国最高司令官マッカーサー元帥に任命されたゆえに裁判所としてはどの判事も欠席させることはできない、と簡単に裁判長忌避動議を却下した。するとウエップ裁判長が姿を現し、ノースクロフト判事に替わって裁判長席に座った。 「私は、当法廷の裁判官を受諾します前に、私の前歴につきまして慎重検討いたしまして、私の説が最も信用すべきあらゆる法律家に支持されたことを確信しました」
ウエッブ裁判長はわけのわからない弁明をしたあと、罪状認否に移ると宣告した。