更新日 2014年08月17日
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第二次世界大戦 日本の戦後補償条約一覧
日本国との平和条約 [サン・フランシスコ平和条約]
第二次世界大戦における連合国と日本の間の平和条約
署名国 / 48カ国と日本
署名年月日 / 1951年9月8日
発効年月日 / 1952年4月28日
賠償額 / 無
第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約。
この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。
国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。
ソビエト連邦をはじめとする東側諸国、「中国」(後述)およびインドやインドネシアなどの国は会議への参加や調印・批准を行わず、個別の条約や合意によって戦争状態が終結することとなった。

サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂と、見守る各官僚 1951年9月8日
日本国と中華民国(現台湾・当時は国民政府)との間の平和条約
中華民国との平和条約/議定書/交換公文
署名国 / 中華民国(現台湾・当時は国民政府)と日本
署名年月日 / 1952年4月28日
発効年月日 / 1952年8月5日
失効年月日 / 1972年9月29日 (日本国と中華人民共和国の国交回復により失効)
賠償 / 第5条により、日本国と中華民国とも権利及び利益を廃棄することに同意している。
日本と中華民国(現台湾・当時は国民政府)との間で両国間における第二次世界大戦の戦争状態を終了させるために締結された条約である。
調印は、1952年4月28日に台北でされ、国民政府の支配下にある台湾を適用範囲として結ばれた。サンフランシスコ平和条約(=日本国との平和条約)発効の7時間30分前であった。

【 日本国と中華民国との間の平和条約 】 台湾の台北 1952年4月28日
[向って右側]日本側 - 河田烈 特命全権(大蔵大臣)  [向って左側]中華民国側 - 葉公超 中華民国全権委員
サンフランシスコ講和条約の発効の7時間30分前に署名している。
日本国とインドとの間の平和条約
第二次世界大戦におけるインドと日本の間の平和条約
署名国 / インドと日本
署名年月日 / 1952年6月9日
発効年月日 / 1952年8月27日
賠償額 / インドの賠償請求放棄(第6条)
インドはサンフランシスコ講和会議に招請を受けたが、1951年8月23日に会議への参加と条約への調印は拒否した。
インドのネルー首相の主張とは、この条約が日本の主権と独立に制限を加えるものだから認められないとし、戦争状態を終わらせるのは日本との個別条約で行うべきとして、実際に日印平和条約を結んでいます。

【 日本国とインドとの間の平和条約 】 東京にて
[向って右側]日本側 - 日本国外務大臣 岡崎勝男
[向って左側]インド側 - 日本国駐在特命全権大使 K・K・チェトゥール
日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定
1952(昭和27)年1月からフィリピンとの賠償交渉を始めるが、フィリピン側は80億ドルを要求し、日本側はそれが過大であるとし合意に至らず、2月中旬同使節団は帰国した。
1953(昭和28)年11月、フィリピンはナショナリスタ党が政権をとり、マグサイサイ氏が大統領に就任したことで状況は変わった。同大統領は、80億ドルの要求が困難であることを理解し、より柔軟な姿勢に転じた。我が国は大野フィリピン公使を派遣して 「2億5,000万ドル、10年払い」の案を提示した。しかし、フィリピンのガルシア外相は「日本案はまったく問題にならない」として20億ドルの案を示し、物別れに終わった。
1954(昭和29)年4月、双方が歩み寄り「4億ドル、20年払いとする。ただし日本側はこれにより実質的には10億ドルの効果がフィリピンに生じるようにする」ということでまとまり、4月15日、予備協定の仮調印までこぎ着けた。これが「大野・ガルシア予備協定」と言われるものである。
同日の4月15日、村田省蔵氏(元駐比大使・フィリピン友の会会長)を全権に選び、本調印のため出向いたが、フィリピン側は「大野・ガルシア予備協定は話し合いの出発点に過ぎない」との認識を示してきた。日本側も「それでは話が違う」として、日比賠償交渉は振り出しに戻ったた。フィリピンの野党議員団から「8億ドル、5年払い」又は「10億ドル、5年払い」という強い要求が出されていたのが理由である。
1955(昭和30)年3月5日、マグサイサイ大統領は鳩山首相に「賠償問題を早く解決したい」との趣旨の書簡を送ってきた。
フィリピン側は「総額の話は後回しにして、まず日本側がどのような物資、役務が提供できるのか、そしてそれをフィリピンの開発計画にどのように結びつけるかということから研究しよう」という姿勢をとり始めた。そして3月早々に細かい開発計画をたずさえてラヌーサ外務省経済局長が来日し、中川融アジア局長を中心に、賠償品目を個別的に検討する積み上げ方式により賠償額を決定する専門家会議を続ける努力が払われた。
1956(昭和31)年3月14日、アジア協会会長藤山愛一郎氏(日本商工会議所会頭)を鳩山首相の特使としてマニラに送った。同氏は賠償が始まっても日本とフィリピンの貿易量を減らさない、むしろ拡大させていく方向付けを行った。そして5月8日、高崎達之助氏を日本側全権に任命し、翌9日に賠償協定に署名した。同協定には、いかなる業種を賠償として出すかを列挙した付属書のほかに、同時に署名した経済開発借款に関する交換公文、役務に関する交換公文そして貿易拡大に関する共同声明がある。
フィリピン領海における沈没船舶の調査に関する交換公文
署名国 / フィリピン共和国と日本
署名年月日 / 1953年1月24日
フィリピンとの沈没船舶引揚に関する中間賠償協定
署名国 / フィリピン共和国と日本
署名年月日 / 1953年3月12日
発効年月日 / 1953年10月29日
1952年12月、倭島外務省アジア局長を派遣し、沈没船引揚調査団派遣に関する了解が成立(交換公文_1953年1月24日)し、1953(昭和28)年3月12日に沈没船引揚に関する中間賠償協定が成立した。同協定は10月29日に発効したが、実施細目の取決めは1955(昭和30)6月17日まで成立せず、同年8月30日以降、沈没船引揚作業がようやく開始された。なお、この中間賠償の実施された金額は本体の賠償から差し引かれることになっている。
日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定
署名国 / フィリピン共和国と日本
署名年月日 / 1956年5月9日
発効年月日 / 1956年7月23日
賠償 / 5億5,000万米ドル(1980億円)を76年までの20年間に及んで賠償としてフィリピン共和国に供与するものとする。
第一条 日本国は、現在において千九百八十億円(一九八、○○○、○○○、○○○円)に換算される五億五千万合衆国ドル(五五○、○○○、○○○ドル)に等しい円の価値を有する日本人の役務及び資本財たる日本国の生産物を、以下に定める期間内に、及び以下に定める方法により、賠償としてフィリピン共和国に供与するものとする。
第二条 以下詳しくは、データベース『世界と日本』を参照
日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定 [5千万ドル分に関する交換公文]
署名国 / フィリピン共和国と日本
署名年月日 / 1956年5月9日
発効年月日 / 1956年7月23日
賠償 / 5,000万米ドル
日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定 [フィリピンとの経済開発借款取極]
署名国 / フィリピン共和国と日本
署名年月日 / 1956年5月9日
発効年月日 / 1956年7月23日
借款 / 2億5,000万米ドル(900億円)

1955年5月24日に国会議事堂で、日本の総理大臣鳩山一郎と元第六代大統領エルピディオ・キリノの会議
エルピディオ・キリノは、1953年7月反日感情の根強い中、日本人戦犯105人に恩赦令を出し帰国を許した。
第六代大統領エルピディオ・キリノの任期 1948年4月18日 – 1953年12月30日
日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定
インドネシア賠償交渉担当 アルジ・カルタウィナタ国会議長の発言、「独立のお祝いというつもりで賠償を払ってください。日本が悪いことをしたから賠償をくれというわけではありません。」
独立当事のインドネシアは、経済的にも窮し国民が貧困に喘いでいた事と、「独立できたのは、日本軍が軍隊(PETA)を作ってくれ、敗戦後もインドネシア独立運動に参加してオランダ軍と戦ってくれたからだ。」という好意的な対日感情が背景にあった。
第二次世界大戦終結後、インドネシアでは日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、再植民地化を試みたオランダとの間に発生したインドネシア独立戦争では、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導するとともに、自ら戦闘に加わるなどした。戦後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。
インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれているが、2014年の式典には、死亡・高齢での体調不良などのために1人も参加できなかった。
2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は、最後の残留日本兵とされ、これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡したとされる。小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、棺にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地に埋葬された。
これらの事情が、インドネシアとの戦後の賠償交渉を友好的に進めることができた。
インドネシアとの沈没船舶引揚に関する中間賠償協定
署名国 / インドネシアと日本
署名年月日 / 1953年12月16日
発効年月日 / 効力は発効せず
賠償額 / 無
インドネシアとの平和条約
署名国 / インドネシアと日本
署名年月日 / 1958年1月20日
発効年月日 / 1958年4月15日
賠償額 / 無
インドネシアとの賠償協定
署名国 / インドネシアと日本
署名年月日 / 1958年1月20日
発効年月日 / 1958年4月15日
賠償額 / 賠償 2億3,308万米ドル(803億880万円)及び、機器
【 第一条 1 】 日本国は、現在において八百三億八百八十円(八〇、三〇八、八〇〇、〇〇〇円)に換算される二億二千三百八万アメリカ合衆国ドル(二二三、〇八〇、〇〇〇ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から十二年の期間内に、以下に定める方法により、賠償としてインドネシア共和国に供与するものとする。
【 第一条 2 】 前項に定める生産物及び役務の供与は、最初の十一年の期間において、現在において七十二億円(七、二〇〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される二千万アメリカ合衆国ドル(二〇、〇〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の年平均額により行い、未供与分を第十二年目に供与するものとする。
インドネシアとの沈没船舶引揚中間賠償協定の廃棄に関する交換公文
署名国 / インドネシアと日本
署名年月日 / 1958年1月20日
発効年月日 / 1958年4月15日
インドネシアとの旧清算勘定等残高処理に関する議定書
署名国 / インドネシアと日本
署名年月日 / 1958年1月20日
発効年月日 / 1958年4月15日
無償供与 / 1億7,691万米ドル(636億8760万円)
インドネシアとの経済開発借款取極
署名国 / インドネシアと日本
署名年月日 / 1958年1月20日
発効年月日 / 1958年4月15日
借款 / 4億0,000万米ドル(1440億円)

1958年1月30日 インドネシア大統領のスカルノが来日 芝白金迎賓館で岸首相と会談 
インドネシアに対する日本の賠償と経済協力、とりわけ前者は、帝国主義の後退によって生じた真空を埋める上でも、また、ドミノを押し戻す上でも効果があった。 日本とインドネシアとの間で交渉が妥結したのは、57 年 11 月 27 日の岸=スカルノ会談においてであった。インドネシアの対日貿易債務 1 億 7691 万 3958 ドルを総賠償額から差し引く形で棒引きするというインドネシア案を受諾するという岸の政治判断であった。
その 2 日後、インドネシア各地でオランダ企業の現地人労働者による大規模な反オランダ・ストライキが発生する。これをきっかけに、オランダ企業の国有化、オランダ領事館の閉鎖、職業を持たない全オランダ人の国外退去など一連の強行措置が講じられ、インドネシアは「経済的脱オランダ化の最終段階」を迎えた。
このとき、独占的地位にあったオランダ系海運会社が撤退したことによって、島々を結ぶ交通が途絶するという死活問題が生じた。インドネシアは賠償をもとに日本から船舶を調達しようとした。日本は米国に了解を求めた。米国は日本の急速な経済進出を好ましく思わなかったが、そうかといって、ソ連・東欧諸国が船舶の提供を申し出、ただでさえ容共的なスカルノがそれを受け入れて、東南アジアの戦略上の重要地域に共産主義勢力が進出することになってしまうのは最悪であった。やむを得ず、米国は、オランダの後退によって生じた真空を埋める形で日本がインドネシアへ経済進出するのを容認するほかなかったのである。
日本国と
第二次世界大戦に
署名国 / と日本
署名年月日 / 19
発効年月日 / 19
賠償額 /