更新日 2017年09月22日
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東京裁判 時系列行程
東京裁判 行程
昭和20年
1945年7月26日
ポツダム宣言 米国・英国・中華民国の三国によって発せられる。
昭和20年
1945年8月14日
日本政府はポツダム宣言の受諾を、
駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告する。
昭和20年
1945年9月2日
東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印する。
昭和21年
1946年1月19日
降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められる。
昭和21年
1946年4月29日
昭和3年(1928年)から昭和20年(1945年)即ち満洲事変より太平洋戦争(大東亜戦争)迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴が行われた。
起訴状には、通例の戦争犯罪に加えて、新たな戦争犯罪概念として
「平和に対する罪」、「人道に対する罪」が加えられていた。
GHQ直属の国際検察局が100名を越すA級戦犯容疑者リストから、
下記の28名を起訴し名前を公表した。
  • 荒木貞夫 -(陸軍中央)
  • 板垣征四郎 -(関東軍関係)
  • 梅津美治郎 -(関東軍関係)
  • 大川周明 -(民間人-思想家)
  • 大島浩 -(外交官-駐ドイツ大使)
  • 岡敬純 -(海軍中央)
  • 賀屋興宣 -(大蔵大臣)
  • 木戸幸一 -(内大臣)
  • 木村兵太郎 -(陸軍中央)
  • 小磯國昭 -(総理大臣-陸軍)
  • 佐藤賢了 -(陸軍中央)
  • 重光葵 -(外務大臣)
  • 嶋田繁太郎 -(海軍中央)
  • 白鳥敏夫 -(外交官-駐イタリア大使)
  • 鈴木貞一 -(企画院総裁)
  • 東郷茂徳 -(外務大臣)
  • 東條英機 -(総理大臣-陸軍)
  • 土肥原賢二 -(特務機関)
  • 永野修身 -(海軍中央)
  • 橋本欣五郎 -(陸軍中央)
  • 畑俊六 -(陸軍中央)
  • 平沼騏一郎 -(総理大臣-司法官僚)
  • 広田弘毅 -(総理大臣-外交官)
  • 星野直樹 -(企画院総裁)
  • 松井石根 -(陸軍中央)
  • 松岡洋右 -(外務大臣)
  • 南次郎 -(関東軍関係)
  • 武藤章 -(陸軍中央)
昭和21年
1946年5月3日
東京裁判 審理開始

5月3日 巣鴨プリズンから護送バスで市ヶ谷台の法廷に向かい被告
東京裁判 午後からウェッブ裁判長による起訴状の朗読

5月3日 東京裁判初日 起訴状朗読 28人全員の被告が揃い起立している

ウェッブ裁判長の起訴状朗読の最中に、いきなり東條英機の頭をピシャリと叩く大川周明。2回目には法廷がワッと爆笑と喚声が同時に起きた。
昭和21年
1946年5月4日
前日に読みきれなかった起訴状を朗読し、清瀬弁護団長が日本人弁護士を紹介し、5月6日の月曜日に罪状認否をおこなうことで休廷となる。
ウエップ裁判長は、大川の精神鑑定が必要と判断して退廷を命じる。
大川は米軍野戦病院と東大病院で診察を受け、起訴状に対する答弁能力なしと判定され、松沢病院に入院して免訴となり東京裁判から除外され姿を消した。
昭和21年
1946年5月6日
東京裁判の審理3日目は、被告の罪状認否を行う予定。
下記の写真に写っている裁判官は9名です。この時点で追加招集されたインド代表のパル判事・フィリピン代表のデルフィン・ハラニーリャ判事はまだ来日していません。
ウエップ裁判長が罪状認否に入ろうとした時に、
清瀬一郎弁護人により「 裁判官忌避の緊急動議 」が出された。

裁判官忌避の緊急動議を提出、キーナン首席検事と激しくやりあう清瀬一郎弁護人
清瀬一郎弁護人の正論の緊急動議に対し、急所を衝かれたウェッブ裁判長は理性を失い顔面蒼白になり、強引に休憩を宣言して対策を練るために引っ込んでしまった。そして再開した法廷で「忌避動議却下」と言い渡し、予定の罪状認否に入ってしまった。罪状認否はわずか9分間で終わり、ウェッブ裁判長は次の審理は5月13日に行うと告げて休廷した。
昭和21年
1946年5月13日
清瀬一郎弁護人 裁判所の管轄権に対する動議を申し立てる。
「それでは、かねて提出いたしておきました当裁判所の管轄に関する動議に説明をいたさせていただきます。」
「その第一は、当裁判所においては、平和に対する罪、また人道に対する罪につきお裁きになる権限がないということであります。いうまでもなく、当裁判所は連合国が1945年七月二十六日ポツダムにおいて発しました降伏勧告の宣言、その中に連合国の俘虜に対して残虐行為をなしたるものを含むすべての戦争犯罪者に対しては峻厳なる裁判が行われるべし、という条規が根源であります。・・・・・・
昭和21年
1946年5月14日
管轄権問題についてのJ・ファーネス(米国人弁護士)の補足動議が行われる。
「この裁判の判事は全て戦勝国の代表のみによって構成されている。検事もそうである。我々は、各判事、検事が公正であっても、任命の事情によっては、決して公正では有り得ないと主張する。なぜならこれらの国々が本起訴の原告でもあるからである。この裁判は今日においても、また今後の歴史においても、公正ではない、合法ではないという批判を免れないであろう。被告に対し法律に適った公正なる裁判を施行するには、中立国の代表によって構成される判事・検事でなければならない。なぜなら中立国は戦争の熱情と憎悪から脱しているからだ。こういう国の代表者によって裁かれてこそ、合法的で公正な裁判という事が出来る。」
管轄権問題についてのブレークニー(米国人弁護士)の補足動議
[ 略 ]・・もしキット提督の死が真珠湾空襲による殺人罪になるならば、我々は広島上空に原爆を投下した者の名前をあげることができる。
投下を計画した者の名前をあげることができる。
投下を計画した参謀長の名を承知している。
その国の元首の名前も我々は承知している。
彼らは殺人罪を意識したか・・・してはいまい。我々もそう思う。
それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。
原爆を投下したものがいる。
この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認したものがいる。
その人たちが裁いている。
・・・彼らも殺人者ではないか
弁護人側の管轄動議は法廷に強烈なインパクトをもたらした。ウェッブ裁判長をはじめ他の裁判官たちにも即答できる問題ではなかった。
昭和21年
1946年5月17日
午前にウェッブ裁判長は、『管轄に関するすべての動議を却下する。その理由は、将来宣明する。』とその場を切り抜け、事件の進行を図った。
その「将来宣明」は、昭和23年11月4日の判決言い渡しまで行われなかった。
管轄権の動議が却下された後、法廷は6月3日までの半月休廷とさた。
昭和21年
1946年6月4日
キーナン主席検事の冒頭陳述書の朗読が行われた。英文にして約4万語、朗読の時間は2時間50分に及んだ。

検察側立証の冒頭陳述書を朗読するキーナン主席検事(米国)
この裁判の目的は正義の執行にあり、全世界を破滅から救うために、文明と人道の立場から裁判を進めなければならない・・・[ 略 ] 28名の被告たちは、民主主義と人間の尊厳の破壊を目的に枢軸同盟を結び、文明に対して宣戦布告をして、侵略戦争を共同謀議し、計画し、準備し、開始したと断罪した。
さらにキーナン主席検事は、訴追の対象期間を1904年の日露戦争まで遡り、第一次世界大戦から満州事変、日華事変、太平洋戦争(大東亜戦争)下で起きたさまざまな「日本軍の残虐行為」順次立証されるであろうと予告して朗読を終えた。
昭和21年
1946年6月13日
検察側の立証が開始される。立証は翌年1月24日まで約7か月間続く。この間に登場した内外の証人は延べ1000名を超え、法廷で採用された証拠書証は2282点ののぼった。
東京裁判において訴因は55項目であったが、大きくは、
  • 第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)
  • 第二類「殺人」(訴因37-52
  • 第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)
の三種類に、55項目の訴因が分類された。
当初55項目の訴因があげられたが、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、最終的には以下の10項目の訴因にまとめられた。
  • 訴因01 1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議
  • 訴因27 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争
  • 訴因29 米国に対する侵略戦争
  • 訴因31 英国に対する侵略戦争
  • 訴因32 オランダに対する侵略戦争
  • 訴因33 北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争
  • 訴因35 ソ連に対する張鼓峰事件の遂行
  • 訴因36 ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行
  • 訴因54 1941年12月7日~1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反
  • 訴因55 1941年12月7日~1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反
昭和21年
1946年6月17日
第1部 『 侵略戦争への道 』
検察側の各論の立証が始まる。
米国のハックマン検事による「 侵略戦争への道 」の冒頭陳述が行われた。
日本の軍国主義教育の実態や教育者への弾圧、言論機関への抑圧、警察権力を駆使しての圧制や脅迫などによって、侵略戦争がいかに準備されていったかの立証が主眼におかれた。
海後宗臣(東大助教授)、大内兵衛(東大教授)、滝川幸辰(京大教授)らが証人として登壇した。大内氏らの教授グループ弾圧事件、滝川氏らの京大事件などの真相が初めて明らかにされた。続いて、前田多文(前文相)、伊藤述史、緒方竹虎、鈴木東民、幣原喜重郎、藤田勇、犬養健、若槻礼次郎、宇垣一成、後藤文夫らが登壇した。

6月18日 海後宗臣(東大助教授)日本人として最初に証人席に座る。

6月19日 大内兵衛(東大教授)証人として発言

6月19日 滝川幸辰(京大教授)証人として発言
昭和21年
1946年6月27日
松岡洋右の弁護人から「被告松岡洋右は本日午前2時40分、東京帝国大学病院において死亡いたしました。」と報告が行われる。
重度の結核による衰弱が激しかった松岡洋右、波乱万丈の人生を閉じ起訴状から除かれる。
昭和21年
1946年7月1日
第2部 『 満州侵略 』
米国のジョン・ダルシー検事による「 満州侵略 」の冒頭陳述が行われた。
満州制圧か支那事変にいたる日本軍の謀略と侵略性を追求する。
満州事変の発端になった1931年9月18日の柳条湖事件は、日本軍が起こした謀略事件と断定し、清朝の廃帝愛清覚羅溥儀を首領とする満州国を樹立し、熱河省、内蒙古にも侵略の手を広げ、長城以南へ本格的に侵略するための布石を築いたと陳述した。
もっとも積極的に関与した被告として、荒木貞夫・土肥原賢二・橋本欣五郎・広田弘毅・板垣征四郎・松岡洋右・南次郎・大川周明の8人を名指しした。
検察側は、60通の書証を提出し、元首相の海軍大将の岡田啓介、満州事変発生時の奉天総領事館主席補佐官だった森島守人らの証人を出廷させて、日本軍内部の暗闘や、在満州の関東軍のさまざまな謀略や陰謀を次々に暴いていった。
これらの証人の中で被告と弁護人たちにショックと怒りを与えた検察側証人が登場する。 田中隆吉陸軍少将である

撮影日時不明 証人席に座る田中隆吉陸軍少将
検察側が「 満州侵略 」の立証で、最大限に活用した証人
昭和21年
1946年7月29日
ジョン・ギレスピー・マギー(アメリカ聖公会伝道団宣教師)
昭和21年
1946年7月29日
マイナー・S・ベイツ ・ 金陵大学歴史学教授(アメリカ人)は、東京裁判の法廷で日本軍により4万2千人が南京で虐殺されたと証言しました。
一般市民1万2千人についての証言
『我々は安全地帯およびその付近の地方について、できるだけ調査をしたのであります。スミス(=スマイス)教授および私はいろいろの調査、観察の結果、我々が確かに知っている範囲で、城内で1万2千人 の男女および子供が殺されたことを結論といたします。その他市内で多数殺された者があります。我々はその数を調査することは出来ませぬ 。』
兵士3万人についての証言
『中国兵の大きな1群は城外のすぐ外で降伏し、武装を解除された72時間後、機銃掃射によって射殺されたのであります。これは揚子江の畔であります。国際委員会は3万人の兵士 の亡骸を葬るため労働者を雇ったのであります。・・・揚子江に葬られた屍体および他の方法によって葬られた屍体の数は数えることが出来ませぬ。』
婦女暴行についての証言
『安全区内での婦女凌辱事件は、ごく内輪にみても8千を数えることができます。同僚であったドイツ人は2万件と見込んでいます。』
昭和21年
1946年8月16日
満州国皇帝の愛清覚羅溥儀が注目される証人として、
8月16日から8月27日まで証人席に座った。
終戦の翌々日1945年8月17日、溥儀一行は日本に脱出しようと奉天(現在瀋陽)飛行場で乗り換え機を待っている時、突如進駐してきたソ連軍に捕らえられ、ハバロフスク郊外で抑留生活を送っていたが、東京裁判の検察側証人として空路、東京にやってきた。

1946年8月9日 ソ連軍将校とともに東京裁判に向かう溥儀
常にソ連の官憲が溥儀を監視していた。
東京裁判に証人として召喚された溥儀は、もっぱらソ連から言われたとおりに証言し、すべては日本の軍閥の仕業であり、自分はまったくの傀儡にすぎなかったという答弁に終始したのである。満州事変当時、溥儀が陸相南次郎大将に宛てた親書の中で、満州国皇帝として復位し、龍座に座することを希望すると書いていたという事実を突きつけられても、溥儀はそれを偽造だと言って撥ねつけたのだった。
この強弁には血を分けた弟の溥傑(ふけつ)でさえも憤慨し、日本軍閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを利用しようとしたことを、どうして証言しないのかと言って、兄である溥儀のふがいなさを嘆いたという。

8月16日から8月27日まで証人席に座った溥儀
弁護側は、溥儀証人が、満州国執政次いで皇帝に即いたのは、一切日本側の強制によるものであり、帝位在位中一切自由はなく、すべて関東軍のお膳立て通りに行動した、と証言した点に的を絞り、この証言は嘘であり、証人は偽証しており、従って彼の証言には信憑性が無い事を明らかにする点に主眼を置いて反対尋問を進めた。
ブレイクニー弁護人は、「本証人の証言は、彼が心ならずの君主となったという事が底流をなしており、彼がした一切の行為は強制によるものだといっているが、我々はそれに対応する反証を挙げて、彼を証人として失格させようとするものである。」と言語人の意図を明らかにしている。
弁護人の追求が核心を衝くと、溥儀は「忘れた」「記憶にない」を連発してうまく逃れたが、法廷に与えた印象は悪く、そのことで弁護団の方針は成功したともいえる。
後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。

1964年出版
溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。『わが半生』はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を16万字ほど削除・修正し、64年に出版された。
昭和21年
1946年9月11日
第4部 『 独伊との共同謀議 』
9月19日 三国同盟問題の立証が行われた。アメリカのフランク・タベナー検察官の冒頭陳述が行われ、三国同盟締結は世界を軍事的・政治的・経済的に支配しようとして共同謀議の上に結ばれた同盟であるとされた。
三国同盟締結の主役は元外相の松岡洋右被告が病死したために、追及の矢はもっぱら元駐独大使の大島浩被告、締結当時外務省顧問だった白鳥敏夫被告に向けられた。
タベナー検察官の陳述は大島被告や白鳥被告の尋問調書、木戸日記、日独両政府の各種公式文書、外交電報をなどを精査して組み立てたもので、日独防共協定にはじまり、三国軍事同盟へと進む日本の "戦争への道"を見事に描いて見せた。

アメリカのフランク・タベナー検察官の冒頭陳述
「日独伊が各々その勢力圏内において特別の支配権をもつとともに、これらの三国が全世界の完全な支配を取得するという目的に対して、いやしくもこれに反対するあらゆる国に対する侵略戦争において、右の三国が相互に援助するために、ドイツおよびイタリアと共同謀議行った。」として訴追している。
昭和22年(1947年)6月12日 三国同盟段階の弁護側冒頭陳述 被告大島浩弁護人 オーウェン・カニンガム

『三国同盟締結から太平洋戦争開始に至るまでの間の日独伊関係に関しては相互援助のなかったことを弁護側は次の事実により証明します。
第一 ドイツは日本の英国との参戦を望んだ。
第二 ドイツは独ソ開戦後日本に対し独軍がモスクワに迫っていた時ソ連への攻撃を望んだ。
第三 ドイツは日米開戦を望まなかった。日本は独自に米国と戦争を始めたのです。』
カニンガムの反論は歴史的な事実として三国同盟が何ら軍事的の効力がなかったことを主張していた。
「訴因第五は、訴因第一で訴追された共同謀議よりも、いっそう広範囲の、さらにいっそう誇大な目的をもった共同謀議を撮影している。我々の意見としては、共同謀議者のうちあるものは、これらの誇大な目的の達成を明らかに希望していたけれども、訴因第五に訴追された共同謀議が実証されているという認定を正当化するには、証拠が不十分である。」と判決文で示されている。
昭和21年
1946年9月30日
第5部 『 仏印(現ベトナム、カンボジア、ラオス)に対する侵略 』
フランスのロベル・オネト代表検事の冒頭陳述は、日本の仏印=フランス領インドシナ(現ベトナム、カンボジア、ラオス)進駐の目的は、日華事変を早急に集結させることと、南方進出の拠点を築くこと、そして日本国内で不足しつつあるゴムと米を、手に入れることの三つだったといい、そのためにフランス本国がドイツの占領下にあることをいいことに、ヴィシー政府を恫喝してまず北部仏印に進駐し、さらに南部仏印にも進駐して日米交渉決裂の原因を作ったと決めつけた。そしてオネト検事は、太平洋戦争の導火線となった日本の仏印進駐は「銃剣外交」で、合法を装った侵略戦争であると断定した。
昭和21年
1946年10月8日
第6部 『 対ソ侵略 』
一週間しか参戦していないソ連の主張に注目が集まった。
ソ連代表のゴルンスキー検事の冒頭陳述は英文65ページにのぼり、キーナン首席検事の冒頭陳述をも上回る長さで、朗読に1時間半もかかった。しかし、その内容は饒舌で、冒頭陳述としては迫力に欠けるものだった。おまけに 1904年に起きた日露戦争から1945年8月にいたる「ソ連に対する日本の侵略」を立証するとして、明らかに起訴状が言及する期間(1928年~1945年)を逸脱したものだった。
起訴状が限定した機関に起きた日ソ紛争といえば、張鼓峰事件とノモンハン事件の二つであるが、この二つの事件にしても、当時、日ソ間で協定が結ばれて解決済みの問題である。どうやらソ連は、日ソ中立条約がまだ生きている1945年8月9日に、突如日本に宣戦布告した自らの『条約違反』を何とかもみ消そうとしていたのかもしれない。
当然のことながら、ブレイクニー弁護人らから異議申し立てが出された。
「陳述は結論的、理論的、推論的、扇動的で、具体的事実を述べていない。」
「この陳述は、当時なお有効であった日ソ中立条約を侵犯して日本に宣戦布告をしたことに対して、自分の立場を正当化しようとして議論しているに過ぎない。」
ブレイクニー弁護人の反論はまっとうな主張である。極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われているこの時点ですでに、米ソ対立の冷戦状態が起きており、ソ連側はその対立をこの東京裁判に持ち込んできたのである。
ウェッブ裁判長も弁護側の異議を認める発言をしたが、ソ連の立証は続行された。
10月8日から始まったノモンハン事件の立証で、事前にゴルンスキー検事が提出した証拠物件の中に、満州駐在の経験もある富永恭次中将の供述書が含まれていた。その中で、昭和15年の対ソ襲撃計画にれており、検察官の「天皇は計画を可決しましたか ?」という質問に、富永が「ご裁可あらせられました」と答えたと記されていた。その内容はノモンハン事件の立証のためよりも天皇訴追のために起用される可能性をはらむのだった。
【ノモンハン事件の立証】は別ページで詳しく調べます。