更新日 2014年08月17日
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中国国民軍が行った作戦 焦土作戦
焦土作戦とは
焦土作戦(しょうどさくせん)とは、戦争等において、防御側が、攻撃側に奪われる地域の利用価値のある建物・施設や食料を焼き払い、その地の利用価値をなくして攻撃側に利便性を残さない、つまり自国領土に侵攻する敵軍に食料・燃料の補給・休養等の現地調達を不可能とする戦術及び戦略の一種である。
撤退する場合に敵方に利用価値のあるものを残さないことは戦術・戦略上の要諦であり、対象物が軍事施設だけに限定される場合などは焦土作戦とは呼ばない。
侵略してくる敵に対し、撤退の際に道路・鉄道施設、水道・橋などを破壊して敵が侵攻する足場を崩し、加えて農地・稲穂等の収穫物を焼き払い、敵が現地調達しようとしていた食料など兵たん物資を一切与えない作戦だ。井戸に死体・毒を放り込み飲み水・料理が出来ないようにする。寒冷地では建物を破壊・放火して兵士を厳寒地で野営される。
その地域に住んでいる人々も同じ様に残忍な扱いを受ける。男性は破壊された橋・鉄道・井戸などの復旧の労働力として強制的に労働させられるので、追撃する敵軍隊に利用されないように殺害してします。女性に対しても同じだ。自分たちが残忍だから追撃する軍隊も同じ事をするとだろうと、退却する軍隊自らが強姦・殺害してします。 仮に生き残ったとしても、食料が無いのである。
軍隊の都合で行われる作戦だが、被害を受けるのはそこで生活していた人々だ。 紛争が終わっても以前の生活ができない位に破壊されてします。 他の土地に移住するか、復旧の為に大変な苦労をしなければならない。
国民の生命・資産を守るのが軍隊の使命である。施政者・軍隊の権力闘争の為に、国民が犠牲に成ってしまうのが「焦土作戦」である。
中国国民軍が行った焦土作戦 1938年 長沙大火
中国国民党軍(蒋介石)の放火で始まった長沙市の大火事
支那事変の1938年11月13日午前2時、湖南省長沙において中国国民党軍によって起された放火事件である。中国語では文夕大火(ぶんせきたいか)とも呼ばれる。人口50万の都市であった長沙は、火災により市街地のほとんどを焼失した。
目的は日本軍に対して一物も与えないための焦土作戦(堅壁清野)とする見方が一般的だが、この時期に日本軍は長沙に進攻することはなかったため、一部には中国共産党幹部であった周恩来らの暗殺を目的としていたとする見方もある。

長沙大火 1938年11月13日 3日3晩燃え続け50万都市がほぼ全焼したといわれている
中国国民軍が行った焦土作戦 1938年 黄河決壊事件
中国国民党軍(蒋介石)によって黄河の堤防が決壊される。
黄河決壊事件は、1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の鄭州への進撃を止める目的で、黄河の堤防を決壊して起きた氾濫である。
日本軍の進撃を止めるために中国国民党軍は黄河の堤防を破壊し洪水を起こさせたことは有名である。堤防の外に流出した黄河の水は河南省・安徽省・江蘇省の11都市と4000の村を水没させ、農地を破壊し、水死者100万人を出したと言われている。
洪水の被害面積は、日本の九州と四国を合わせた面積に匹敵すると言われている。

黄河決壊事件 農村地帯 100万人の水死者が出たと言われている
歴史上中国が行った 焦土作戦
明軍・韓国軍が行った焦土作戦 1592~1953年 文禄の役
明軍・韓国軍が行った焦土作戦により韓国民に数百万の餓死者がでる。
日本軍(秀吉軍)は、3軍に分かれて釜山に上陸しました。その1軍は17日目にソウルに辿り付いているが、李氏朝鮮は宗主国である明国に早急には援軍を求めなかった。明国の軍隊が自国の領内で略奪・強姦を行う事が解っていたから援軍の要請が遅れたのである。
当時日本国は、火縄銃を多く持っていた。世界の半分以上の火縄銃を所有していて、世界一の戦力が有ったと言われている。明国・朝鮮国の連合軍は、日本軍と向かい合って戦うのだが、碧蹄館の敗戦によって明国・朝鮮国の連合軍は戦意を失い退却を繰り返していた。その退却する時に、焦土作戦を行い朝鮮の住人の食料を全て奪い燃やし尽くして去っている。
明国と朝鮮軍は、自国民である朝鮮国民を犠牲にした焦土作戦を行い、日本軍の行き先には全く食糧が無い様にしたのです。日本軍が敗走したのは食料を現地調達が出来なかったからです。
結果的に、日本軍を撃退する為に行った焦土作戦が、自国民数百万を飢え死にさせる事になったのです。
( 管理人:ここでは焦土作戦がテーマです。焦土作戦以外の内容は、別ページでまとめます。)

碧蹄館の敗戦によって明国・朝鮮国の連合軍は戦意を失い退却を繰り返していた。その退却する時に、焦土作戦を行い朝鮮の住人の食料を全て奪い燃やし尽くして去っている。
中越戦争で中国軍が行った焦土作戦 1979年2月17日~3月16日
中国・ベトナムの間で行われた戦争 中国軍が、ベトナム国内で行った焦土作戦
中国は支援していたカンボジアに対し攻撃したベトナムを牽制する為に、56万の軍をベトナム国境に集結させ威圧していた。1979年2月17日、雲南と広西からまず10万の陸上軍によりベトナム北部に侵攻が始まった。
この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には正規軍3個師団ほど(約3万人)と民兵しか居なかった。この民兵はベトナム戦争において米軍に勝ちベトナムを統一した主力であったために、彼らは実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も残っていた。兵力ではかなりの差が有ったが、北部地域で中国軍を食い止めていた。
3月5日 中国軍がベトナム北部の要所ランソンを占領した日に、カンボジア方面に展開中だったベトナム軍主力の5個師団が、ハノイ郊外の巨大陣地に戻ってきた。
中国軍はベトナム軍主力と軍事衝突すれば、野戦軍のさらなる被害増大と占領地の維持が危うくなることから、中国軍は翌日の3月6日からの撤退を開始した。
撤退を始めた中国軍に対して、ベトナム軍主力は追撃を開始した。中国軍は、占領していた省から撤退するにあたり、非人道的な焦土作戦を繰り返してベトナム軍の追撃を断ち切り、3月16日までにベトナム領から撤退した。その後、中国政府は内外に向けて戦争勝利の宣伝活動をしている。

1979年2月17日 ベトナム国ハザン省で、ベトナム民兵が3,240人が死亡している。
中国軍がベトナムとの国境を越えた最初の日の出来事 写真の出所はこちらです。