更新日 2017年09月22日
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黄河決壊事件
1938年6月 中国国民党軍(蒋介石)によって黄河の堤防が決壊される。
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の鄭州への進撃を止める目的で、黄河の堤防を決壊して起きた氾濫である。

1937年12月 南京陥落
1938年5月 徐州占領
1938年6月 黄河決壊事件 [南京大虐殺(中国主張の事件)の、6ヶ月後に起きた事件である。]
黄河決壊事件の背景
1937年12月に南京陥落されると中国国民党政府は首都を南京から漢口(現在の武漢)に移した。その後、日本軍は1938年5月に江蘇省の徐州と河南省の蘭封(開封市の東。現在の蘭考県。)を占領し、さらに開封・鄭州方面へ向かった。
鄭州は、中国の中央に位置し戦略的に重要な都市である。
鉄道路線で、北京と武漢を南北に結ぶ[京漢線1906年開通]、連雲港と西安を東西に結ぶ[隴海線の一部1935年開通]の両方が交わる地点が鄭州で、戦略物資・兵力・食糧等の輸送での戦略的に重要な都市である。
日本軍は南京・徐州と占領し、鄭州に向かっている。鄭州を占拠し終わると次に向かうのは、中国国民党政府が首都にした漢口(現在の武漢)になるのは戦略的に必然であろう。
中国国民党軍が日本軍の鄭州進行を阻止するために行った作戦が[黄河決壊事件]である。
中国の歴史 と 黄河の歴史
中国第二の大河。青海省南部のバヤンカラ山脈北西部に発し、東西に大きく蛇行したのち甘粛省蘭州で北転し、陰山山脈南辺で東転、次いで南下して山西・陝西省境をなし、潼関付近で渭河を併せて再び東転し、華北平野を東北流して渤海湾に至る。 上流域の洮河・湟河・大通河、中流域の汾河・渭河、下流域の沁河・洛河を主な支流とし、中流域は黄土台地、下流域は黄土の沖積平野をなす。
融雪期・降雨期には水量が激増し、黄土含有率は時に50%を超え、平野部では河底に堆積する土砂によって天井川(砂礫の堆積により川底が周辺の平面地よりも高くなった川である。)となっており、華北平野は現在でも8年で1kmほど前進している。 そのため増水期の氾濫で河道を変える事もあり、過去には7回の大変動が記録されている。
1938年6月、日本軍の進撃を止めるために中国国民党軍は黄河の堤防を破壊し洪水を起こさせたことは有名である。堤防の外に流出した黄河の水は河南省・安徽省・江蘇省の11都市と4000の村を水没させ、農地を破壊し、水死者100万人を出した。1948年に嘗ての済水の河道を利用して現在の流路に整えられた。
黄河の氾濫で形成された華北平野は肥沃な沖積層で、農耕の発展とともに古代文明が発祥し、江南開発が飛躍的に発展した五代期までは政治・文化・経済の中心として重要視され、治水の難しさと併せて古来から「黄河を制する者は天下を制する」と称された。
上記の格言が正しければ「黄河を破壊する者は天下から嫌われる」となるであろう。
蒋介石の中国国民軍は、自らの目的の為に民間人を数十万人から百万人を死亡させ、600万人以上を被災させたと言われている。

世界で最も堆積物の多い川が黄河である。歴史資料を分析すると、今までに7度河道を変えている。
1937年6月 黄河決壊事件
蒋介石の中国国民軍が行った黄河決壊事件の場所
黄河決壊事件により、黄河の河路が黄海へ大きく変わった

洪水の被害面積は、日本の九州と四国を合わせた面積に匹敵すると言われている。
花园口决堤后黄泛区示意图
赤いエリアが、洪水被害のエリアです。

この写真の引用は、[ http://tupian.baike.com/a1_70_22_01300000003661120636228510884_jpg.html ]です。
北支那方面軍史料より、死者・離郷者の数値・冠水地域を作図

死者・離郷者の数値は梁262-263頁、冠水地域は北支那方面軍史料より作図